「さすがはジャックのアニキだ」「おれたちランタン族を指導してくれる師だぜ」と尊敬されるジャックオーランタンだ。来月末だがもう商店には並んでいるので、ここにも登場したのである。
肝冷斎もいない中、わたしも明日は出張でいなくなるんです。
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わしのような師がいなくなるとみなさん困りますでしょうなあ。
いにしえ、
師術有四、博習不与焉。
師術に四有り、博習は与からず。
師たる者のやり方には四通りあった。なお、いろんなことを知っている、というのは、(師たる者のやり方とは)関係がない。
いろんなことを知っている、ということは、人の師の本質ではないからです。
では四通りのやり方とは如何なるものであるか。
尊厳而憚、可以爲師。
尊厳にして憚らるるは、以て師たるべし。
威厳があって尊敬され、(人々から)けむたがれるぐらいなら、人の師となれるであろう。
耆艾而信、可以爲師。
耆艾(きがい)にして信ぜられれば、以て師たるべし。
「耆」は六十歳、「艾」は五十歳のことです。
五十〜六十歳になっても(人々から)信頼されているなら、人の師となれるであろう。
年をとったら弱ったりボケたりして信頼されなくなるか、老害となって若い者たちの行く手を塞いで嫌われるとかしてしまうことが多いわけですが、周りから信頼されるように人格や能力を磨けてきているなら、師になれます。
誦説而不凌不犯、可以爲師。
説を誦して凌(しの)がず犯さず、以て師たるべし。
自分の師の説いたとおりのことを口に唱え、それを越えたり侵害したりしないなら、人の師となれるであろう。
新設を言い出したりしては師にはなれません。
知微而論、可以爲師。
微を知りて論あれば、以て師たるべし。
小さなことも知っていてそれを論理的に説明できるなら、人の師となれるであろう。
このように、師たる者のやり方には四通りあるが、いろんなことを知っている、ということとは関係がありません。
水深則回、樹落則糞本、弟子通利則思師。
水深ければすなわち回り、樹落つればすなわち本を糞し、弟子利に通ずれば、すなわち師を思う。
水深の深いところでは水は(戻ってきて)渦を巻く。木の葉が落ちればその根元の肥やしになる。弟子が物事を理解してくれば、師の恩を思うものじゃ。
いにしえより言う、
無言不讎、無徳不報。
言に讎(むく)いられざる無く、徳に報われざる無し。
「よいコトバを教えてやれば、必ず返報があるものだ。恩徳を施してやれば、必ず恩返しがあるものだ」
と。
これ(師が弟子を教えること)は、まさにそのことである。
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「荀子」致士篇第十四より。みなさんからもいずれ恩返しがあるんでしょうが、肝冷斎に返せなくなった分、わしに返すしかないのですぞ。