太っている、厚着している、頭の地肌が日光にさらされる、など、ぶたとのにとって夏は不利である。この上さらに銅の床・鉄の柱で熱せられるには及ばない。
さあ週末・・・と思ったんですが、なんとまだ木曜日だったか!
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あと一日、なんとか無事で過ごせるといいなあ。
無事而憂、対景不楽、即自家亦不知是何縁故。
無事にして憂い、景に対して楽しまざれば、即ち自家また知らず、これ何の縁故なるやを。
何の事件も無いのに心配ばかりし、すばらしい風景の前でもそれを楽しまない。こんな状態だと、自分でも一体どういう因果でこんなことになってしまったのかわからないだろう。
要らぬ心配はせず、美しい景色などは素直に楽しみましょう。
この世はたいていの時、ツラいですからね。
這便是一座活地獄、更説甚麼銅床鉄柱、刀山剣樹也。
這(こ)れすなわち是れ一座の活地獄なり、さらに甚麼(なん)の銅床・鉄柱、刀山・剣樹を説かんや。
この(目の前にある)世界はそのままワンセットの現実の地獄である。この上、どうして(仏教で地獄にあるという、下から火で熱して人を焦がす)銅で作られた床や鉄の柱、(そこに昇ったり降りたりさせられて身を切り刻むという)刀の山や剣の樹のことを語らねばならないのか。
語らなくても目の前の現世という名の地獄を見れば十分であろう。
そして、
煩悩之場、何物不有、以法眼照之、奚啻蠍踏空花。
煩悩の場、何物か有らざらんも、法眼を以てこれを照らせば、なんぞただに蠍の空花を踏むのみなるや。
煩悩の支配するこの世だ、どんなものでも存在するし、どんなことでも起こるであろう。しかし、仏法に開かれた目でよくよく見れば、どれもこれもサソリがまぼろしの花を踏んでいるだけではないのだろうか。
サソリは花を美しいとか思いません。花に何の執着も無い。しかもその花は光るものを見ていた後目を閉じるとちらちらと見える光跡のような「まぼろしの花」に過ぎないので、本来執着しようにもしようがないものなのである。世間で重要そうに見える地位も財産も名誉も愛憎も、実は何の意味もない。わしは執着しないぞー、という意味です。
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「酔古堂剣掃」巻四「霊」より。難しい譬喩ですが、「サソリ、空花を踏む」というのが世間の功名富貴に執着しないという意味のコトバだと覚えておいてください・・・いや、忘れても結構です。試験には出ないと思いますので。では明日一日がんばって・・・え? まだ水曜日?