とにかく食うのじゃ。味わったり噛んだりしているヒマはないのじゃぞ。
焼酎飲んできたんで眠い〜。
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一眠りしてました。よし、今日も説教じゃ。
人皆不咬味聖賢語、而直呑却。故心無執聖賢之道。
人はみな聖賢の語を咬み味わわず、ただちに呑却す。故に心に聖賢の道を執る無し。
おまえさんたちはみんな古代の聖人や賢者のコトバをよくよく噛んで味わっていない。噛まずに呑み込んでしまっているのだ。だから心の中で聖人・賢者の生き方をつかんで離さないことができないのじゃなあ。
もう少しわかりやすく言いますよ。
柿は旨きものなれども、咬み味はひてこそ又食ひたいと思ふ心は在らんか。丸呑みにしては又食ひたいと云ふ心はあるまいぞ。聖賢の語も同じ、聖賢の道を慕はざるも道理なり。
柿は美味いものですが、よく噛んで味わってこそ、次も食べたいと思うのではないだろうか。丸呑みにしてしまったら、もっと食べたいというキモチにはならないでしょう。古代の聖人賢者のコトバも同じことで、(よくよく味わってないから)聖人賢者のやり方を慕って真似するということにならないのも道理である。
いや、待ちなされよ。・・・しかしながら、
咬まずして呑んでも、腹中にて消し、命を養ふものはあるべし。知らずして食うても、命を養ふものもあるべし。
噛まずに飲み込んでも、おなかの中で消化して生命の糧になる、ということはあるなあ。考えずに食べても栄養になるのはなるぞ。
要するに、
聖賢の語をよく味はひて知るは上なり。知らずして丸呑みにするも、呑まざるにまさる道理はあり。
聖人賢者のコトバをよく味わって自分のものとするのは上等のひとであるが、理解せずにとにかくこうだ、と丸呑みにしてしまっても、何も学ぼうとしないよりはずっとよいことである。
さらにこうも言えますかな、
仏氏よく知之。譬へば初生の赤子の乳味を食むがごとし。之は母の乳味とも弁まへず、此の乳味は何物が乳味となりて、誰が我が口へは入るとは知らずとも、呑めば命を養うて長ずるが如し。
われわれ仏教のおシャカさまの教えはこのことをよく理解しておって、たとえるなら、赤ん坊がお乳を飲むようなもの、と考えますのじゃ。赤ん坊は「これはママのおっぱいでちゅね」などと分析するわけではない。このお乳はもともと何が原料になっちて誰のおっぱいから飲んでいるのか、などということは考えなくても、お乳を呑めば栄養になって成長していけるのじゃ。
おわかりですかな。
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沢庵禅師「東海夜話」上之巻より。はじめは@よく噛んで味あわないともう一回食べようと思わないからよく噛んで食べろよー、とドリフターズみたいなことを言っていたのですが、途中からA噛まずに丸呑みでも腹の中で消化して栄養にはなるので、丸呑みだとしても食べないよりはいいか、と言い出し、最後は、B乳児は誰のお乳かなんか考えずにお乳を飲む。みなさんも理屈なんか抜きにして、まずはホトケさまにおすがりすることじゃぞー、という結論に達しました。
沢庵禅師は話の途中で別の人になったわけではないので、話の途中でどんどん成長したのかも知れません。