「にゃんか問題あるのかニャニャ―ん?」と、悪がのさばるのを見れば、詩経や書経の勉強ばかりして人生を費やしてきた自分が情けなくなる。
身の振り方を考えています。やっぱり会社作って何かの商売をするのがいいのかな。
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楽府題(古い歌曲に合わせた詩の題名)に「估客楽」(あきないびとの楽しみ)というのがあります。
この曲は既に滅びて、題名だけが遺っていた南宋の時代、この題で詩を作った人がいたんです。
長江浩浩蛟龍淵、 長江は浩浩として蛟龍の淵あり、
浪花正白蹴半天。 浪花正白にして半天を蹴る。
長江はひろびろしてあちこちに水龍の棲息する深淵があり、
波がしらは純白で、空までの半分まで上がって空を蹴り上げているようだ。
そんな長江を大きな船が、はじめ豆粒のように見えたのに、視線の定まらぬうちにすごいスピードでやってきて、目の前に停泊した。
船からはごろごろと牛車が出てきて、宝物を運び出し、ひとびとは市場で大騒ぎしている。
商談を行うために妓楼で百万(円)の金を費やし、
まとまったお祝いに注文した酒は値百千(一万円)だ。
さて、おれたち儒学を学んで役人になろうとしてきた者たちはどうだ?
苦労して一日だけでも腹一杯になろうと、光範門(←唐代、宰相の官邸のあったところだそうです)の前でお辞儀しているばかりではないか。
歯揺髪脱竟莫顧、 歯は揺らぎ髪は脱するもついに顧みる莫(な)く、
詩書満腹身蕭然。 詩・書、腹に満つるも身は蕭然たり。
年をとって歯は揺らぎ髪が抜けてきても、とうとう誰にもかえりみられることなく、
詩経・書経の知識は腹にいっぱい入っているのだが、落ちぶれてさびしいありさまだ。
自看賦命如紙薄、 自ら看る、賦命の紙の如く薄きを、
始知估客人間楽。 始めて知る、估客が人間(じんかん)の楽しみを。
自分をよく見てみれば、与えられた運命が紙のように薄かったらしい。
こうなってやっとわかった、(古い歌にもあるように)商人は人生を楽しんでいる、ということが。
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南宋・陸游「估客楽」。いやいや、商人でも勤め人でも学者さんでも、成功したひとなら楽しい、というだけのことではないんでしょうか。
それよりも「詩・書腹に満つるも身は蕭然たり」という一句が、年老いて歯も揺らぎ髪も抜けたが腹だけは出てきた、というわれらにとてもフィットするのでご紹介してみました。え? みなさんは「詩・書」の勉強していない? というよりもパリッとしていて蕭然としていない? 腹も出てない? まさか・・・。