バランスの取れたエサをもらっても牽制しあってなかなか食べられないものである。ましてやニンニクをもらっても好きでないと食べにくい。
洞穴から立ち退き命令が来ました。
「他のドウブツも冬眠から覚めて出て行かれましたので、ニンゲンの肝冷斎さんもそろそろ・・・」
要するに早く世俗に出ていけ、というのである。
そろそろ身の振り方を考えなければなりません。このひと↓でも参考にしてみようかな。
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前漢の終わりから後漢にかけてのころ、山西・太原に閔貢、字・仲叔というひとがおりました(「三国志」に出てくる後漢末の「宦官キラー」閔貢とは別の人です)。
当時、光武帝から「不賓之士」(皇帝でさえ賓客にできない高潔の士)と呼ばれた周党というひとが閔貢と食事をしたのだが、このとき閔貢の家の食事には「菜」(おかず)がないことに気づいた。そこで、蒜(サン。ひる。ニンニクのことです)を贈ったのだそうです。決してゼイタクな食べ物ではなく、贈り物としては失礼かも知れない。
すると、閔貢は、
我欲省煩耳。今更作煩耶。
我は煩わしきを省かんと欲するのみ。今さらに煩わしきを作さんや。
「わしは面倒なことがイヤなので、おかずを食べてないだけのだよなあ。ここまで来て、面倒なことをしたくないなあ」
と言って、
受而不食。
受くるも食らわず。
(断ると面倒くさいので)受け取ったが、食べなかった。
これに周党が驚き、
潔清以弗及也。
潔清以て及ばざるなり。
「あのひとの潔癖で清廉なのには、わしはかなわんなあ」
と評した―――というほどの廉潔なひとだったのです。
後漢の建武年間(25〜56)、司徒の侯覇に請われて一度出仕したことがあったが、
既至、覇不及政事。
既に至るも、覇、政事に及ばず。
やってきたのだが、侯覇は閔貢にまつりごとについての相談をしなかった。
こういう高潔なひとに、生臭い政治行政のことを語ることができなかったのであろう、いつも文化的なハナシばかりしていた。
しばらくすると、閔貢は
以仲叔為不足問耶、不当辟也。辟而不問、是失人也。
仲叔を以て問うに足らずと為すや、辟(まね)くべからず。辟きて問わざるは、これ人を失うなり。
「仲叔(←自分を字で呼んだ)のことを相談するには足らないと思うのなら、招いてはいけないよなあ。招いておいて相談しないのは、どう考えても人を使う方法を間違っているよなあ」
と言いまして、
遂辞出。
遂に辞出す。
とうとう辞めてしまった。
その後、朝廷の大学の博士として召されたが、これにはもう応じなかった。
客居安邑、老病家貧、不能得肉。曰買猪肝一片、屠者或不肯与。
安邑に客居し、老病にして家貧しく、肉を得るあたわず。猪の肝一片を買わんと曰うに、屠者あるいは与うるを肯ぜず。
郷里に土地も無く、山西の安邑に居候していたが、年老いて病気がちになり、貧乏で肉を食べたくなっても入手できなかった。そこで、
「ブタのレバーを一切れだけ売って欲しいのじゃがなあ」
と肉屋に頼むのだが、売ってもらえないことも多かった。
「そんなに窮迫しておられるのか」
其令聞、勅吏常給焉。
その令聞き、吏に勅して常に給せしむ。
安邑の県令がそのことを聞いて、下役人に命じて、毎日ブタのレバー一切れだけは届くようにした。
ありがたいことです。
ところが、
仲叔怪、問知之、乃嘆曰、閔仲叔豈以口腹累安邑耶。
仲叔怪しみ、問いてこれを知り、すなわち曰く、「閔仲叔、あに口腹を以て安邑を累(わずら)わさんや」と。
仲叔は毎日レバーがおかずにつくことに疑問を感じ、まわりの人に聞いて県令の配慮だと知ると、
「この閔仲叔、どうして口と腹のこと(すなわち食い物のこと)で安邑県にご迷惑をかけられようか」
と言い出した。
遂去、客沛、以寿終。
遂に去りて、沛に客し、寿を以て終わる。
結局安邑を去って、山東の沛県に行って仮住まいし、やがて大きな病気も無く、老齢を以て亡くなった。
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晋・皇甫謐「高士伝」より。うーん、参考になるのはなるのですが、一度出仕して理屈つけて辞めているのがなかなか真似しづらいです。もう何もシゴトしたくないからなあ。