平成31年2月27日(水)  目次へ  前回に戻る

魚とライス、なかなか左図のような平穏な現物交換は困難であるが、おカネを媒介すれば交換が成り立つこともあるのである。

今日は中華腹いっぱい食って洞穴に帰ってきました。腹いっぱい食えるのもよく考えるとおカネのおかげです。

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西晋の時代の有名なお話でございますが、尚書令の王衍、字・夷甫

雅尚玄遠。

雅にして玄遠を尚(たっと)ぶ。

おっとりしていて、深遠な道家の思想を尊んでいた。

しかし、そのヨメである郭氏は重臣・郭泰寧の娘で、

才拙而性剛、聚斂無厭、干予人事。夷甫患之、而不能禁。

才拙にして性剛、聚斂厭くること無く、人事に干予す。夷甫これを患うれども禁ずるあたわず。

あまり才覚はないくせに性格は強気で、おカネ儲けにたいへんな情熱を持っており、また王衍の所管していた人事についてもいろいろ介入してくるのである。王衍はたいへん心配していたが、止めさせることはできなかった。

というツラい状態であった。

王衍はこのツラい状態のもと、

常嫉其婦貪濁、口未嘗言銭字。

常にその婦の貪り濁れるを嫉(にく)み、口にいまだかつて「銭」の字を言わざりき。

いつも女房の金儲け好きで根性悪なのを不快に思って、絶対に「ゼニ」というコトバを言わないことにしていた。

「ふん、ほんとかねえ」

婦欲試之、令婢以銭遶牀、不得行。

婦、これを試みんと欲し、婢をして銭を以て牀に遶らせ、行くを得ざらしむ。

奧さんは、試してみようと、侍女に命じて夜の間にベッドの周りに銭をばらまいておき、これに触らなければベッドから出られないようにした。

かくして、

夷甫晨起、見銭閡行、呼婢曰、挙却阿堵物。

夷甫、晨に起き、銭の行くを閡(ふさ)ぐを見、婢を呼びて曰く、「阿堵物(あとぶつ)を挙却せよ」と。

王衍が朝起きてみると、貨幣が歩く先を塞いでいるのを見て、侍女を呼んで言った。「あの、そいつを片付けてしまえ」と。

「阿」は語頭の辞、「堵」は当時の「それ」「あれ」というような代名詞だそうです。「ゼニ」というコトバだけは言わなかったのである。

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「世説新語」巻十・規箴篇より。これ以来、おカネのことを「阿堵物」というのがカッコいいこととされるようになりました。

―――それから千数百年後、清の時代のことでございますが、江蘇・無錫のひと鄒暁屏は、宰相の地位まで昇った人物であるが、

帰田時年已七十又四、一裘三十年僅存其鞟、頼門生贈遺以爲薪水。

帰田の時、年すでに七十又四、一裘三十年にして僅かにその鞟(かく)を存するのみ、門生の贈遺に頼りて以て薪水と為す。

帰郷した時は、すでに七十四歳となっておられたが、毛皮の上着は一枚しか持っておらず、それを三十年も着ていたので、毛がはげ落ちて皮だけになっていた。かつての派閥の後輩たちからの贈り物だけを頼りに、なんとか食事をしていく始末であった。

というぐらい清貧であったそうなんです。

そのお子様の鄒光駿は徽州に赴任していたが、同地には買官によって官職を得ていた豪商がおり、

其家出喪、以三千金為寿、乞太守一至為栄、往返再三終不応。

その家出喪するに、三千金を以て寿と為して、太守の一至を乞いて栄と為さんとし、往返再三なるもついに応じず。

その豪商の家で葬儀があった際に、黄金三千両を礼金として、一度葬儀におみえいただいて家の栄誉としたい、と何度も依頼に来たが、相手をしなかった。

鄒光駿、笑って言うに、

豈能以阿堵物汚吾家風耶。

あによく阿堵物を以て吾が家風を汚さんや。

「どうして「あの、その物」なんかもらって、我が鄒家の家風を汚してしまうことができようか」

わっはっは。

其廉如此。

その廉なること、かくの如し。

この親子の清廉潔白であること、これほどであった。

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清・銭泳「履園叢話」二十四より。わたしなど洞穴の中にいてもおカネだけは欲しい、と思うこともあるのですが、俗世にいておカネを欲しがらないとは、エライひとだなあ。

 

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