カッパの鼻水には悟りへの転換ポイントが隠されているかも知れないが、要らない。
今日は帰りに串カツ食った。久しぶりに揚げ物腹いっぱい食って、うまかった。
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昨日の鳥窠和尚と白楽天のお話を、約六百年前に日本国内で読んでいた人がおられまして、一篇の詩を作った。
巣寒樹上老禅翁、 巣は寒からん、樹上の老禅翁、
寂莫清高名未空。 寂莫として清高、名はいまだ空しからず。
そこの巣は寒くはございませんか、樹上の老いた禅じじいよ、
孤立し、清く高尚で、その名は今でも知られている。
白楽天の問いに答えて、
諸悪莫作善奉行、 諸悪作すなかれ、善奉行せよ、と。
大機須在酔吟中。 大機はすべからく酔吟の中に在らん。
「悪いことはしてなりません、いいことをしなさい」と(外面よく答えたが)
(悟りへの)大きな転換ポイントは酔歌する(ようなキモチ)の中にこそあるはずだ。
「酔吟」の語、「酔って吟じる」という文字通りに解しましたが、実は白楽天が晩年に「酔吟先生」と自称しているので、それを踏まえると、
(悟りへの)大きな転換ポイントは、白楽天の方にあるはずだ(和尚の方はヒントを示しているだけだ)。
みたいな意味が並行してこめられているんだと思います。
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一休宗純「賛鳥窠和尚」(鳥窠和尚を讚める詩)。一休さんは五山文学だから、良寛さんと違って難しい。「大機」(悟りへの大きな転換ポイント)は実はどこにでもあるのだという結論になるのだと思います。揚げ物の中にも精進物の中にもあるであろう。