平成30年11月19日(月)  目次へ  前回に戻る

煩悩さえまとわりついて離れることがないのだ。ヒヨコがまとわりつくとたいへんうっとうしい。

平日。職場に行ってみたがかなり最低限の動きしかせず、じっとしていました。座禅して、ぽく、ぽく、ぽく、ぽく、と木魚を聞いているようなものでしたね。

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北宋の芙蓉道楷禅師は少年時代から道教に志していたらしいんですが、後、開封に出て仏門に入り、やがて投子義青のもとに来て、禅に参じた。

ある日、道楷、投子和尚に問うて曰く、

仏祖言句、如家常茶飯、離此之外、別有爲人処也無。

仏祖の言句は家常茶飯の如く、これを離るるの外には別に人の為す処有りや(無きや)。

「ブッダのコトバというのは、毎日のお茶やごはんのようなもので、それを離れてはどこにもニンゲンが目指すものはあるはずがございませんよね?」

と。すると、投子和尚は間髪を置かずに問い返した。

汝道寰中天子勅、還仮尭舜禹湯也無。

汝、寰中の天子の勅、また尭・舜・禹・湯を仮ると道(い)うや(無きや)。

「おまえはもしかして、今の世の天子さまのご命令は、古代の尭や舜や夏の禹王や殷の湯王の命令として発せられなければならない、と思っているのはないだろうな?」

「あ・・・」

師欲進語、子以払子撼師口曰、汝発意来、早有三十棒也。

師進み語らんとするに、子払子を以て師の口を撼(う)ちて曰く、汝、意を発し来たれば、早(つと)に三十棒有り、と。

「師」は芙蓉道楷禅師のこと(このときはまだ弟子の状態)、「子」は投子和尚の「子」です。

道楷が何かを話そう、とした瞬間、投子和尚は払子で道楷の口を叩き、「おまえが何か考えて言うと、それだけで棒三十発を食らわずぞ!」と言った。

弟子の発言を阻止するとは怪しからん・・・と思いきや、なんと、このとき、

師即開悟。

師、即ち開悟せり。

道楷は、即座に悟りを開いたのであった。

道楷は「そういうことか・・・」と腑抜けたような顔になり、和尚を二回拝むと、部屋から出て行こうとした。

和尚曰く、

且来、闍梨。

しばらく来たれ、闍梨(じゃり)。

「ちょっとこちらに来い、坊主」

師不顧。

師、顧みず。

道楷は振り向こうともしない。

和尚重ねて曰く、

汝到不疑之地邪。

汝、不疑の地に到れるや。

「おまえは、もう疑うこともない境地に進めたのか?」

すると、

師即以手掩耳。

師、即ち手を以て耳を掩えり。

道楷は手で耳を塞いで、去って行ってしまった。

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「五燈会元」巻十四より。かっこいい。

さて、問題です。

(1)  投子和尚は、どうして「ブッダのコトバは日常的なものだ」という解釈を否定したのでしょうか。

(2)  道楷はどうして投子義青に口を打たれて、即座に悟りを開けたのでしょうか。

(3)  その後、道楷はどうして耳を塞いでしまったのでしょうか。

考えてみてくださいよー。ぽく、ぽく、ぽく、ぽく、ぽく・・・・・・

・・・と木魚を叩いておりましたら、

「おれたちはノウハウを学ぶのに忙しいんだ、パワーブレクファストに「ぽくぽく」してるヒマな無いよなあ」

「ビジネスパーソンには時間は財産なの、わかる?」

「きみ、ヒマなんだろう? きみが説明してくれ。三分以内だ!」

みたいな意見が次々と出てきた。

しようがないので、ほんとは回答など一つに決めてもいけないぐらいなのですが、手っ取り早く、曹洞二祖・孤雲壊奘の弟子であった瑩山紹瑾「伝光録」(第四十五章)に以下のとおり、そのまま回答になるような解説があったので、これを読んでガマンしてくだされ。

(1)(道楷のコトバは)尋常行履の外に、さらに仏祖のしめすところありやいなやと、すこぶる所解を呈するに似たり。

ところが、和尚はこれを否定した。

実にこれ当今の令を下すに、卒にむかしの尭王舜王の威をからず、唯一人慶あるときは、万民おのづから蒙るのみなり。しかの如くたとひ釈迦老子出世し、達磨大師現在すとも、人々他のちからをかるべからず。ただ自肯自証して少分相応あり。

これは、現実として、現在位についている皇帝が命令を下すときには、古代の尭帝や舜帝らの権威を仮りることなどない。たった一人の主権者からありがたい思し召しが出されたら、すべての人民はそれに従うしかないのである。同様に、たとえ釈迦の大先生が現世に出てきたり、ダルマ大師がまだ生きていたりしても、おまえたちはその人たちの力を仮りるわけにはいかず、ただ自分で肯定し、自分で確認して、分に相応して悟っていくしかないのである。

ということで、和尚は否定したんですなあ。

次に、

(2)道理をとき、滋味をつけん、なほこれ他をみる分あり、趣向をまぬがれず、ゆゑに、進語せんとせしに、払子を以て口を打つ。ここにもとよりこのかた具足して、かけたることなきことをしめす、・・・発意とは、それ心とは如何なるものぞ、仏とはなにものぞと、求め来たりしより早くおのれにそむいて他にむかひ来る。・・・悉く趣向をまぬがれず。

道理を説き、それに深みを付けたりすると、実はそれは他者を意識しているという面があり、指向性を持つことを免れていない。そこで、道楷が進んで何か言おうとしたときに、払子で口をぶっ叩いたのである。(真理は)コトバとして出す前に、もとから具わっていて、欠けている部分などない、ということを教えたのだ。「考えてものを言う」ということになると、「それでは心とはどういうものか」「仏とはどういうやつだ」ということを考え求めでしまうことから、自分ではなく他者の方に意識が映ってしまう。まったく指向性を持ってしまっているのだ。

もしこれ趣向のところあらば、早く白雲万里なり、己れに迷ふこと久し。あに三十棒のみならんや。千生万劫なんぢを棒すとも罪過まぬかれがたし。ゆゑに言下にすなはち開悟し、再拝して便ち行く。

もし指向性を持ってどうこうということを考えるなら、もはや白雲がはるか万里の空を行くように、遠いところの問題であり、自分というものを取り違えているのである。どうして棒三十発ですむだろうか。千回生まれても一万回宇宙が亡びても、おまえを棒で殴り続けることになり、それでもおまえの罪は消えない、ということなのだ。これを聞いて、道楷は即座に理解し、悟りを開くことができたのである。

なるほどなあ。

第三に、

(3)うたがはざるところにいたるやと問ふに、更になんぞうたがはざるところにいたるべきかあらん、早く関山万里をへだて来る。仏祖の言句もし耳にふるる時、早くわが耳を汚しをはりぬ。千生万劫あらひきよむとも、きよまりがたし。ゆゑに手をもて耳を掩ふて一言をいれず。

「疑いの無い境地に至ったのか」と問われても、もはや疑いの無い境地に到るも何もない。すでに関所を越え、万里のこちらまで来てしまっているのだ。こうなれば、ブッダのコトバでさえ耳に触れるとわしの耳を汚すことになってしまう。千回生まれ変わり一万回天地が滅びる間耳を洗い続けてもその汚れは除けないほどだ。だから、手で耳を塞いで一言も聞こえないようにしたのである。

おわかりかな。

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以上のように公案の内容はだいたい瑩山和尚が答えてくれました。みなさんは「ビジネスに役に立つか否か」でも考えてみてくださいね。さあ、ぽく、ぽく、ぽく、ぽく、ぽく・・・・・・・。(あれ、みなさん、もう飽きて一人もいなくなっていたのか・・・)

 

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