ハニワである。これも現代美術とは認識されないのか。
昼間歩いて汗だくになったので体重減ったはずだが、帰ってきたら増えていた。
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さっきまで南の島で夢を見ていて、今はまったく夢から醒めてしまったかのようである。
夢醒過五更、 夢は醒め、五更を過ぎ、
村鼓報朝晴。 村鼓、朝晴れたりと報ず。
夢から醒めたらもう夜明け前、
村の方であかつきを知らせる太鼓が鳴っている。
まだ江戸時代初期で、鐘が行きわたって無いんでしょう。
半壁残燈影、 半壁に燈影を残し、
孤牀落葉声。 孤牀に落葉の声せり。
一方の壁には、まだ蝋燭の火影が残っており、
孤独なベッドには、落葉の音が聞こえてくる。
寒いんです。
年羸嫌枕硬、 年羸(つか)れて枕の硬きを嫌(いと)い、
夜冷覚衣軽。 夜冷えて衣の軽きを覚ゆ。
年をとってきているので、枕の堅いのはイヤである。
夜が冷えてきているので、掛布団が薄すぎる感じがしてきた。
これが生きている、という実感なのでしょう。
懶散居窮僻、 懶散として窮僻に居れば、
自然遂性情。 自然に性情を遂ぐ。
やる気無しにこの田舎に暮らしているので、
おのずからあるべき生き方ができるのである。
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本朝・石川丈山「夢醒」(「東瀛詩選」より引用した)。丈山の生き方とかいろいろ考えねばならないことは多いですが、やる気無しで田舎暮らしすると「性情を遂げ」られるぞ、というのは勉強になるなあ。
それにしても、あとどれほど生きればシアワセの国に到着するのであろうか。
はかなしな心づくしに年を経ていつとも知らぬあふの松原 権中納言経房 (「千載集」巻十二)
儚いことでございますなあ。心を尽くして何年も経ったというのに、あのひとに逢える松原にはいつたどりつくのかわからない。
「筑紫」(尽し)と播磨の「あふの松原」(逢うの待つ)を読み込んであるのだそうでございます。