週末は生存競争を放棄したモグを称賛し、少しは前向きに生きようというぶたいぬを隠すでぶー。
なんとか週末。少しシアワセに。しかしあと二日でまた平日なので、心底からシアワセというわけにはいきません。ああ、シアワセの国はどこにあるのだろうか。
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・・・と嘆いておりましたら、
「教えてあげまーちゅ」
とコドモ賢者が現れた。
「うっしっし。シアワセの国は、おいらの家のあたりにあると思いまちゅよー」
そして、詩を作って曰く―――
家住深林裡、 家は深林の裡に住み、
年年長碧蘿。 年々に碧蘿を長ず。
おいらの棲み家は深い森の中、
緑のつたは毎年伸びて、おいらの家にまとわりついている。
更無人事促、 更に人事の促す無く、
時聴采樵声。 時に聴くは采樵の声のみ。
特段何にも人間関係に迫られてやらなければならないことも無く、
時々、耳を澄ませば、森のどこかでキコリたちが木を伐る音が聞こえるぐらい。
というぐらい世俗から離れて、毎日やることといえば、
背陽補衲衣、 陽を背にして衲衣(のうえ)を補い、
対月読伽陀。 月に対して伽陀(かだ)を読む。
「衲衣」は僧服。「伽陀」はサンスクリットの「ガーター」=「真理の歌」。仏教経典で仏を讃えたり、仏の教えを確認したりするために唱えられる韻文で、漢語ではふつう「偈」(げ)と訳される。
昼間は背中にあたたかな日の光を浴びながら、僧衣の破れを繕っている。
夜には冷ややかな月を眺めながら、ほとけの真理を讃える歌を詠んでいる。
ばかりである。
さてさて、
爲報当途子、 為に報ず、当途の子、
得意不在多。 意を得るは多きに在らず、と。
いまをときめくみなさんのために、お教えしておきましょう、
心満たされるのは、多くのものを手にしたときではないのだ、と。
わーい、言ってやりまちた、言ってやりまちたよー。
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大愚良寛「家住深林裡」より。なーるほど。来週になってもずっとこの深い森の中、コドモ賢者さまの家の近くに住んだまま世俗に戻らなければ、すっごいシアワセになれるわけだぞー。