「明月でさえ雲間に隠れたのに、モグが出ているとは怪しからんので隠してやるでぶー」「もぐるん」
今日は曇り空ですが、さっきちょっと晴れ間があってまるまるとした満月を見ました。雲に隠れたあともう一度見上げて探そうかと思ったが、明日から平日なの思い出して、絶望的になってもう顔を上げることができませんでした。
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さてさて、それにいたしましても、
中秋翫月、不知起何時。
中秋に月を翫(もてあそ)ぶは、知らず、何れの時に起これるやを。
中秋(八月)の満月を楽しむのは、いったいいつの時代から始まったことなのであろうか。
いろいろ調べるとめんどくさいので、
考古人賦詩則始於杜子美。
古人の賦詩を考うるに、すなわち杜子美に始まるか。
とりあえずむかしのひとの詩を調べていくと、どうも唐の杜甫(字・子美)のころからではないだろうか。
これは杜甫の「八月十五夜月」二首のことを言っていると思います。詩を引いてくるとめんどくさいし、なにしろ明日から平日なので、今度の機会にいたします。
杜甫以後、
戎G「登楼望月」(楼に登って月を望む)
冷朝陽「与空上人宿華厳寺対月」(空上人と華厳時に宿して月に対す)
陳羽「鑑湖望月」(鑑湖にて月を望む)
張南史「和崔中丞望月」(崔中丞の「月を望む」に和す)
武元衡「錦楼望月」(錦楼にて月を望む)
などの詩は(これらもちゃんと「全唐詩」とかから引用するといいのですがめんどくさいので省略)、
皆在中秋。則自杜子美以後班班形於篇什
皆、中秋に在り。すなわち杜子美より以後は、班班として篇什に形(あら)わる。
すべて中秋節の時の詩である。このように、杜甫以降は、はっきりと詩集の中に「中秋に月を見て楽しむ」ということが現れているわけである。
「詩経」のうち、小雅・大雅・頌というグループは、それぞれ十篇づつを合わせて「什」と括られ、例えば「鹿鳴之什」(「鹿鳴の詩など10篇」)とまとめられているので、後世、詩集のひとまとまりやそこに入っている詩のことを「篇什」というんです。
前乎杜子想已然也。第以賦詠不著見於世耳。
杜子より前に想は已に然らん。ただ賦詠を以て世に著見せざるのみ。
杜先生より前のひとも同じような感興を持っていたと思うのです。しかし、詩を詠んだりして世の中にはっきりとそのことを示していなかっただけなのでしょう。
六朝から唐の前期にかけて、例えば、
梁・元帝「江上望月」(江上に月を望む)
朱超「舟中望月」(舟中にて月を望む)
庾肩吾「望月」(月を望む)
庾信「舟中望月」(舟中にて月を望む)
唐・太宗「遼城望月」(遼城にて月を望む)
などの詩があります。これらは
雖各有詩、而皆非爲中秋宴賞而作也。
おのおの詩有りといえども、皆、中秋の宴賞のためにして作るにあらざるなり。
それぞれ詩はありますけれども、すべて中秋の宴会を開いてそこで月を賞めてつくった詩ではないのです。
然則翫月盛於中秋、其在開元以後乎。
しかればすなわち、翫月の中秋に盛んなるは、それ開元以後に在らん。
ということで、特に中秋節に月を見て楽しむのは、杜甫の活躍した開元年間(713〜742)以降のことである、と考えられるわけです。
なるほど。
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南宋・朱弁「曲洧旧聞」より。この考証が正しいかどうか、民俗史的には確認していないのですが、朱弁は朱晦庵(朱子)の一族(じいさんのいとこぐらいに当たるはず)で、南宋初の困難な時期に北方の金国に使いし、その任務を全うした愛国外交官でもあります。
そういうすばらしいひとの言っていることですから、
「ほんとですかね?」
と疑うよりも、
「なるほど、勉強になります。啓発されて勉強してみます、言いたいことがあったら調べてからまた来ます!」
と目を輝かせて答えるのがいい・・・と思いますよ。
それにしてもいつもながらチャイナの知識人はこういうの調べるのスキだなあ、と感心してしまいますね。おいらたちも明日から平日でなければなあ・・・。