平成30年8月24日(金)  目次へ  前回に戻る

「おれたちドウブツは義理にはうるさいのニャ」。しかし同じドウブツであっても、モグには社会契約の観念は無い。ニンゲンのコドモのような心なのである。

山中にいると気づかないのですが、今日は金曜日。以前なら週末でほっとしていたころじゃなあ。

今日は週末でほっとしてコドモ心に戻るひとも多いでしょうし、まだ夏休みでコドモも夜更かししているかも知れませんから、ドウブツと友だちになったひとのファンタジックな物語をいたしましょう。

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清の乾隆年間(1736〜95)のことでございますが、直隷(首都近郊)の献県に、多少の財産を持つ范鴻禧というひとがおりました。

このひと、

与一狐友昵。

一狐と友昵なり。

一匹のキツネと深い友だち付き合いをしていた。

チャイナ近世の「狐」はドウブツのキツネというより、「狐」(こ)という名前の精霊の一種だと思っておいた方がよろしく、たいていいつもニンゲンの姿をしています。

この狐は酒を飲むのが好きであった。

范亦善飲、約爲兄弟、恒相対酔眠。

范また善飲し、約して兄弟と為りて、恒に相対して酔眠せり。

范鴻禧もまた酒を飲むのが好きだったから、義兄弟の約束を交わし、いつも向かい合ったまま酔って眠っていたものであった。

お互い異類ということを忘れて、警戒しあわずに仲良くやっていたのだ。

ところが

忽久不至。

忽ち久しく至らずなりき。

あるときから、まったく范の家に寄りつかなくなってしまった。

ある日のこと、

遇于秫田中。

秫田(じゅつでん)の中に遇う。

モチアワの畑の中で偶然、范は狐と出会った。

このときはキツネの形であったと考えるのが自然でしょう。

范はにこやかに狐に声をかけた。

何忽見棄。

何ぞ忽ちに棄てらるや。

「おいおい、最近まったく家に寄ってくれなくなったなあ。何かわけがあるのか?」

すると、

狐掉頭、曰、親兄弟尚相残、何有于義兄弟耶。

狐頭を掉(ふ)りて、曰く、「親兄弟なお相残す、何ぞ義兄弟において有らんや」と。

キツネは頭を振って答えた。

「ほんとうの兄弟にもひどいことをするんだからな、義兄弟には何をするかわからんよ」

と。

そして、

不顧而去。

顧みずして去れり。

振り向きもせずに行ってしまった。

蓋范方与弟訟也。

けだし、范まさに弟と訟せるなり。

つまり、このとき范はその実弟と財産のことで争って裁判まで起こしていたのを嫌がっていたのだった。

元の鉄崖先生・楊維ヘ「白頭吟」(しらが頭のうた)という楽府があって、

買妾千黄金、 妾を買う、千黄金、

許身不許心。 身を許するも心を許さず。

使君自有婦、 使君には自ずから婦有りて、

夜夜白頭吟。 夜夜に白頭の吟をなす。

 千枚の黄金を支払って、若い女を手に入れたれど、

 からだは思い通りにできても心は思い通りになりゃせんぞ。

 知事どの(←妾を買った旦那にこう呼びかけているのである)、おまえさんにはもとからの女房がおって、

 夜な夜なに(老いを嘆く)「しらが頭のうた」を歌って、おまえさんに捨てられたのを泣いておろうに。

前からの奧さんを大切にしないようなおまえさんに、若い女が心を寄せようはずがあるまい。わっはっはっはあ。(この詩、おそらく「妾」の一人称で訳すべきなのかと思うのですが、自分で「からだは許しても、心はゆるさないわ」と訳してたらキモチ悪くなってきたので三人称にさせていただきました)

この詩の訴うるところは、

与此狐所見正同。

この狐と見るところまさに同じきなり。

この狐の考えと、まったく同じ構造になっているようだ。

真の兄弟=義兄弟の関係と、前からの奧さん=若い妾の関係とが、記号論的に等値である、♯MeTooである、という主張です。

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久しぶりに清・紀暁嵐「閲微草堂筆記」巻十「如是我聞」四より。しかし若い妾の方は、へっへっへ、「からだ」は思い通りにできるわけでげすよ、へっへっへ。なので、だいぶん構造は違うような気がします。実はもうそれで十分なのでは。へっへっへ。

 

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