平成30年8月16日(木)  目次へ  前回に戻る

生き返るためには死なねばならない、というのが当然の理である。ようし、それならこの剣で・・・

拙道から何か学びたい者がいるかも知れんと思って、一週間ぶりに洞窟から出てきてみたのじゃが、相変わらず世俗社会は暑く、苦しいし、特に学びに来る者もいないみたいなんで、やっぱり洞窟に引っ込んでいようかなあ。

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唐の時代のことです。

僧、問う、

平田浅草、麈鹿成群。如何射得麈中主。

平田浅草に麈鹿(しゅ・ろく)群れを成す。如何ぞ麈中の主を射得んや。

「平地に短い草が生えているような(見通しのいい)ところに、オオジカやシカが群れを成しております。この中でもオオジカの中の一番でかいやつを(弓で)射抜くには、どうしたらよろしいでしょうか」

もちろん、オオジカは、僧侶たちの最大の目標である「悟り」を意味しています。

「(かなりわかりかけてきてるんですが、)どうやったら最終的な悟りに行きつけますか、ヒントを下さい」

と言っているんです。

薬山惟儼禅師、曰く、

看箭。

箭(や)を看よ。

「矢が飛んできたぞ!(お前が射るのではなくて、お前に向かって飛んでいるではないか!)」

うわーーー!

ばたん。

僧、放身便倒。

僧、身を放ちてすなわち倒る。

僧は、からだをひねって、倒れた。

矢を受けたのか、避けたのか。いずれにしろ、咄嗟によく反応したものです。

禅師、おつきの侍者に言った、

拖出這死漢。

這(こ)の死漢を拖出(たしゅつ)せよ。

「この死んだやつを引きずり出せ」

それを聞いて、

僧便走。

僧、すなわち走る。

僧はすぐに逃げ出した。

「死んでおりませんよ」ということである。

禅師曰く、

弄泥団漢有甚麼限。

泥団を弄するの漢、甚麼の限有らん。

「泥団子をこねくるやつめ、際限も無くまだやるのか」

「はやく死んでしまえ」ということであろうか。

実はそうなんです。禅師は「なぜ、死なないのだ!」とお叱りなのだ。

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「五灯会元」巻第五より。唐代の禅風颯颯たるころのお寺はこんなんだったのでしょう。コドモが遊んでいるようにさえ見えますが、毎日マニュアルも無い問答をしなければいけないのですから、お師匠も僧もたいへんだっただろうなあ、と思います。

この会話は宋の雪竇重顕(せつちょう・ちょうけん)禅師が「名僧言行百選」である「碧巌録」に収めて一段と有名になった(第八十一則)。

雪竇曰く、

三歩雖活、五歩須死。

三歩活するといえども、五歩にはすべからく死すべし。

(この僧、)三歩目までは生きるようだが、五歩目には死んでしまうだろう。

五歩目に死ぬ、とはどういうことなのであろうか。死んだら終わりなんだろうか。

頌(詩的な解説)して曰く、

麈中麈、君看取。 

麈中の麈、君、看取せよ。

 オオジカの中のオオジカ、それがなにものか(この僧はよくわかっていた)、君らもよくよく観察せよ。

下一箭、走三歩、五歩若活、成群趂虎。

一箭を下せば、走ること三歩、五歩にしてもし活せば、群れを成して虎を趂(ちん)せん。

 (禅師がこの僧に、逆に)一本の矢を射下ろしたところ、そいつは三歩走って逃げた。もしも五歩目で死んで、もう一度本当の生を得たならば(つまり、そこで悟りを得たならば)、今度はこの僧がオオジカになって、シカの群れを率いてトラ(真理)を追いかけることだろう。

「五歩目で死ぬ」というのは、禅語でいう「大死」というやつで、「ほんとうの死」です。輪廻してしまう「死」ではない。「大死」で自分を喪失してから、また生き返る、これを「大活」といいますが、「大活」は「大死」をしないと得られない。五歩目で「大死」をすれば、「大活」に向かう条件がやっと整う。

正眼従来附猟人。雪竇高声云、看箭。

正眼は従来より猟人に附せり。雪竇高声に云わん、「箭を看よ」と。

どうやらずっと、矢を放った狩人(すなわち薬山禅師)は正しいまなこを持っておられたようだ(先々まで見通しておられたのだ)。この雪竇和尚も、薬山禅師に倣って、でかい声で申し上げよう、

「矢が飛んで来たぞ!」と。

うわーーー!

ばたん。

 

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