真の悪・ぶたデビル。なんとぶたキングの食べ物を横取りする始末だ。確かにひとと生まれた以上、ひとのふんどしで相撲をとったり、ひとの食い物横取りしたいものである。
あるいは、一攫千金したいなー。
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清の時代に、「樟柳神」という不思議な「おたから」がありました。木製の小さな人形で、人の生まれ日から推算して運勢を占う算命師が使っていたものらしいのですが、どういうカラクリになっていたのか、これに質問をすると言語を発して答えてくれたようなのです。確かなことは、算命師たちがこれを秘密にしていたので、よくわかっていません。
わたしが幼いころ、親戚の家に行ったとき、
適術者爲人算命。毎日止算八人、大抵已往事多験。
術者の人のために算命するに適う。毎日算すること八人に止め、大抵已往の事多く験せり。
ひとの運勢を生誕日からの計算で占う算命師が来ているのに出会った。このひとは、どれだけ頼まれても一日に八人分までしか占わない。人生のことを占ってもらうと、これまでのことは大体合っているので(将来起こることについても信憑性があるような気がするので)あった。
このひとが、樟柳神を一体持っていた。
出樟柳神嚢中、則方寸木刻童子形、向人咿嚶作語、能誦千家詩数首。置人手掌中、人立拱手、宛転如生。
樟柳神を嚢中より出だすに、すなわち方寸木にして童子形を刻み、人に向かいて咿嚶(い・おう)として語を作し、よく「千家詩」数首を誦す。人の手掌中に置けば、人立して拱手し宛転として生けるが如し。
その荷物袋の中から、樟柳神を出してきて見せてくれた。たしか、一寸程度(数センチ)の木にコドモの姿を刻み込んだもので、これが人に向かって、「いー」とか「おー」とかたどたどしくコトバを発するのである。唐代の詩を集めた「千家詩」の中から数首を覚えているらしく、これを唱えるのを聞かせてもらった。そして、ひとの掌にこれを置くと、立ち上がって、手を重ねて拝礼してくれるのである。まるで生きているものの如くであった。
という不思議なものです。
友人の劉福田(彼は役人としては太守にまでなった人であるから、その話は信用できる)が休職していたときに、ひいきにしていた俳優がいたが、こいつは、
性嗜博、金銭到手立尽。衣装尽罄、惶遽欲死。
性として博を嗜(この)み、金銭手に到るにたちどころに尽くす。衣装尽きて罄(むな)しく、惶遽(こうきょ)として死なんと欲す。
とにかくバクチが好きで、お金を手にするとすぐにバクチに使ってしまう。ついに商売道具の衣装まで摩ってしまい、あわてふためいて自殺しようとした。
あるひとが、彼に勧めて、
何不購一樟柳神。得預知采色、則博可常勝。
何ぞ一樟柳神を購わざる。得てあらかじめ采色を知れば、博に常に勝つべし。
「どうして樟柳神を一体、買わないのだ? 樟柳神に問えば、サイコロの出る目を予知することができるというから、バクチに負けることはなくなるのだぞ」
「ほんまでっか?」
そのひと、
信之、購以重金、毎博必先夕叩問。
これを信じ、重金を以て購いて、博あるごとに必ず先夕に叩問す。
これを信じました。大金を投じて算命師以外には門外不出になっている樟柳神を買い、バクチの開かれる前夜に、必ずどんな目が出るか占問をしました。
その晩の賭場で出る目を順にメモして掌中に持ち、それに沿っておカネを賭けたのです。
そして、ついに、ある晩、
往輒大負。
往きてすなわち大負せり。
賭場に行って、徹底的に負けてしまいました。
もう返しようのないぐらいの借金を背負って家に帰ってきますと、意外とさばさばした表情で、樟柳神に向かって、
賭神即財神、禁我勿実言、我何能爲。
賭神はすなわち財神なるに、我に禁じて実言するなければ、我何ぞよく為さんや。
「トバクの神さまなんやからおカネのもうかる神さまのはずやのに、わてに対しては本当のことを言うてくれはらへんだんですなあ。そんな仕打ちをされたんでは、わてかてどうしようもありまへんやんか・・・」
そして、部屋に火をつけ、神像を愛おしそうに撫でさすると、
投之火中、号呼而絶。
これを火中に投じ、号呼して絶せり。
これを火の中に放り込み、自分も激しく叫びながら死んでいった。
そうなのであります。
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「翼駉稗編」巻五より。文中「わたし」とあるのは、肝冷斎ではなく同書の著者・清のひと湯用中さんでした。だいたい肝冷斎は出奔しているので、わたしは腹冷斎ですし。そういえば今回の台風は東から西に進むという変わった進路で、今晩から東海や近畿が心配ですが、西海に消えた肝冷斎はどうなっているでしょうね。
さて、なかなか一攫千金も難しいようです。どうやって生きていけばいいのだろうか。