理論的に考えられず、いろいろと問い詰められるとカニにさえ負けてしまうへいけくん。たとえ世を逃れて出家しても、禅僧たちの厳しい問答には耐えられないだろう。
今日も暑かったが、あと少しだ。今週いっぱいぐらいでもう涼しくなって秋の訪れを感じはじめる・・・はず。もし来週も暑かったら世を逃れる方向で対策を考えなければ。
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肝冷斎が西海方面に消えてからもう一週間。留守を預かる腹冷斎でございます。今日、肝冷斎の遺した品を片付けていたら、メモ帳に汚ない字で、こんな詩が書きつけてありました。
静夜草堂裏、 静夜、草堂の裏(うち)、
打坐擁衲衣。 打坐して衲衣(のうえ)を擁す。
静かな夜、みすぼらしい庵の中で、
わしは座禅を組み、僧衣をひっかぶる。
その姿勢は、
臍与鼻孔対、 臍は鼻孔と対し、
耳当肩頭垂。 耳は肩頭に当たりて垂る。
ヘソが鼻の穴の先にあり、
耳がぶらりと肩先に当たっている。
どれほど時が経ったのか。
窗白月始出、 窗白く、月始めて出で、
雨歇滴尚滋。 雨歇(や)みても滴りはなお滋(さか)んなり。
窓の外が白んできたのは、夜半になって月がようやく出てきたのであろう。
雨は止んだようだが、雨滴はまださかんに滴り落ちているようである。
宋の雪竇重顕(せっちょう・じゅうけん)が選んで頌を附けた「古今の重要な禅僧の言行百選」である「碧巌録」の第四十六則に曰く、
鏡清問僧、門外是什麼声。
鏡清、僧に問う、門外これ什麼(しま)の声ぞ。
唐の名僧・鏡清道怤(きょうせい・どうふ)がある時、弟子の僧に訊ねた。
「門の外に聞こえているのは何の音じゃ?」
僧云、雨滴声。
僧云う、雨滴の声なり。
僧は(素直に)答えた、
「あれは雨滴の音でございます」
それを聞きまして、
清云、衆生顛倒、迷己逐物。
清云う、衆生顛倒、己に迷いて物を逐う。
鏡清和尚は言いました、
「おまえたち衆生は(正しい認識に至ることができず、)ひっくり返って、自分(があるということ)に迷い込んでしまい、外のモノを追いかけてしまっているなあ」
「なんですと! 好き放題いいおって・・・。和尚それでは・・・」
と後まだ会話が続きますが、みなさんマジメに聞く気も無いでしょうから、以下略。
「鏡清雨滴声」という有名な禅宗の「公案」です。「雨歇みても滴りはなおさかんなり」(雨は止んだが、雨滴はまだ盛んに滴り落ちているようだ)という句には、
「まだわしは悟り切れてないようだぞ・・・」
という自省が籠められているようです。
可怜箇時意、 怜(あわ)れむべし、この時の意、
寥寥只自知。 寥寥としてただ自ら知るのみ。
まことに感じ入ることに、この時のキモチは、
ひっそりと、ただ一人、自分にしかわからないのだなあ。
なんと!
もしかしたら肝冷斎はこれほどの心境にまで達していたのであろうか。
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大丈夫でした。これは大愚良寛の詩(「静夜草堂裏」)です。コドモも大好き、越後の良寛さんの心境だったんです。\( ‘ω’)/わーい、肝冷斎ごときにここまで達せられていたのでは困りますから、よかったなあ。