平成30年7月6日(金)  目次へ  前回に戻る

ぶたとのである。背後からモグ忍者が迫っているが、臨機応変な対応ができるであろうか。

今日はいろいろありましたが、とりあえず今は家で憩うております。これからの身の振り方でも考えるか。

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西日本でたいへんな雨だそうです。

漢の武帝の時代のことですが、

河内出火、延焼千余家。

河内に火を出だし、千余家に延焼す。

河内地方で大火事があり、千何百という家が焼けた。

ということが起こりました。

「たいへんなことらしいぞ」

上、使黯往視之。

上、黯(あん)をしてこれを視せしむ。

帝は、謁者(面会の取次などを行う補佐官)の汲黯(きゅうあん)に命じて視察に行かせた。

・・・・ぽくぽくぽくぽく、ちーん。

やがて帰ってまいりました。

早速、帝のもとに参じて報告していう、

家人失火、屋比延焼、不足憂也。

家人失火して屋比びて延焼す、憂うるに足らず。

「ある家で失火して、家家が並んで延焼したものです。それ以上のことはございませんから、心配の必要はありません」

「そうであるか」

「ところで、

臣過河南、河南貧人傷水旱万余家。或父子相食。

臣河南を過ぎるに、河南の貧人、水旱に傷むるもの万余家なり。あるいは父子相食らう。

わたくしめ、往来の間に河南地方を通りすぎました。河南地方では、水害と旱害が続けて起こり、貧しい者たち一万数千戸が被災しておりました。中には(食べ物が無く)親が子を、子が親を食べてしまうという悲惨な状況も起こっておりました・・・」

「なんじゃと!」

帝は身を乗り出した。そんな報告は河南から届いていなかったのである。

「なんとか手を打たねば・・・」

汲黯、深々と一礼して、言う、

臣謹以便宜持節、発河南倉稟、以振貧民。

臣、謹んで便宜を以て節を持し、河南の倉稟を発(ひら)きて以て貧民を振(にぎわ)せり。

「わたくしめ、慎重に考えた末、便宜的に、(河内の火事の被災者用にお預かりした)帝の使者であることを示す「節」を利用させていただき、河南府の食糧倉庫を開いて、貧しい者たちを救済してきた次第でございます。

臣請帰節、伏矯制之罪。

臣、請う、節を帰し、矯制の罪に伏さんことを。

わたくしめはここに、「節」を返させていただきますとともに、どうか御命令を歪めてしまった罪に服したいと存じまする」

「おお、そうであったか」

上、賢而釈之。

上、賢なりとしてこれを釈(ゆる)す。

帝は、賢者の振舞いである、として罪に問わなかった。

さらには、功績として認定して、滎陽県の令に任命したのである。

ところが汲黯は「わしは本来、君主のかたわらにいるべき人物である」と称して、一県令たるを恥じて、田里に帰ってしまった。

帝はそのことを聞いて、改めて中大夫として召し出したが、

以数切諫不得久留内、遷爲東海太守。

しばしば切諫するを以て久しく内に留まるを得ず、遷りて東海太守となる。

何回も

「むむむ・・・」

と帝ご自身が困ってしまうようなキビシイ諫言をするので長く朝廷にいることができず、しばらくすると東海太守に転任させられた。

・・・武帝の治世の前半期に活躍した名臣・汲黯の官界生活は、この後山あり谷ありで、激しい政争の果てに最後は・・・というのはまたのお楽しみといたしますが、今回の彼の態度をみても、災害には臨機応変に対処しなければならない、ということがわかります。

勉強になりますね。

なお、「切諫」(厳しい諫言)は「折檻」(欄干にしがみついて諫言をしているところを摘まみ出されたが、あんまり激しくしがみついていたので欄干が折れてしまった、ぐらい激しい諫言→後に「激しいお叱り」の意味に転化)とは、違うコトバですので念のため。

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「史記」巻百二十「汲黯列伝」より。

本日はオウム真理教事件の死刑囚たちに死刑執行される。普段当たり前のように暮らしてしまっていますが、我が国が法治主義の国であることを改めて思い出して、粛然たるキモチになった。何かしら誇らしい思いさえする。「リベラル」とか「進歩派知識人」の方々には違う意見のひともいるようですけど、そんな人たちにならずにまともに生きてきてよかった。

 

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