平成30年6月30日(土)  目次へ  前回に戻る

次に雨が降ったらこの絵を使おうと思っていたが、いつの間にか梅雨明けしてしまい、使い場所が無くなってしまった。ヒヨコたちは好奇心が強いのでモグを調べているようである。コドモはいろいろ調べるがすぐ厭きる。

明日から出奔するんで、今日は最後の更新。しかしアップはできないだろうからどうせなら攻撃対象を実名で書いてみようかなー、うっしっし。と思ったんですが、月が替わるとアップ出来そうな予感がしているので今日一日だけガマンしてみるか。明日はもう出奔ですが。

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せっかくだから儒学の根本文書である「五経」の勉強でもしてみますか。

ふと新聞のラジオ欄を見たら、「五経童子の経典相談室」というラジオ番組があったので、聞いてみます。

(荘重な感じの音楽の後)

「うわー、たいへんなことに気づいてしまったぞ。ど、ど、どうしよう!」

―――これはこれは「儒学のおにいさん」、どういたちまちたかな。

「あ、「五経童子」だ。いいところに来てくれたね。相談にのってくれ。

―――おいらに出来ますことならば。

「たいへんなことなんだよ。五経に矛盾が発見されてしまったのだ」

―――ほう、どのような。

「科挙試験に向けて勉強していたところ、「周礼」地官・媒氏に曰く、

媒氏掌万民之判。

媒氏、万民の判を掌る。

媒氏(ばいし)という職は、全人民の半分ずつを判定して、組み合わせることを所掌する。

とある。実際に何をするかと言うと、

凡男女自成名以上、皆書年月日名焉。

およそ男女、成名より以上、みな年月日名を書す。

およそ男・女の名前をつけた者については、その命名の年月日と名前をすべて記録しておく。

「成名」すなわち名づけの儀礼は生後三か月に行われることとされているね。

そうして、媒氏は、その記録名簿を見て、

令男三十而娶、女二十而嫁。

男をして三十にして娶らしめ、女をして二十にして嫁せしむなり。

男の方が三十歳になると嫁をとらせ、女の方が二十歳になると嫁に行かせるのである。

ところが!

周を興した文王さまについて、「詩経正義」を閲するに、

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文王十五而生武王、武王尚有兄伯邑考。

文王十五にして武王を生ずるに、武王なお兄・伯邑考有り。

文王さまは十五歳で跡取りの武王を生んだ。しかし、武王には若死にした兄・伯邑考(はくゆうこう)がいたとされている。

ということは、

文王十三生伯邑考。

文王十三、伯邑考を生ず。

文王さまは十三歳で伯邑考を生んだのだ。

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と書いてあった。

そうすると、

文王娶太娰、年不過十二。

文王の太娰を娶るは、年十二を過ぎざるなり。

文王がその后で良妻賢母として名高い太娰(たいじ)さまを嫁とられたのは、十二歳以下だったのだ。

ということになり、ああ、文王さまのような方が三十になってから娶れ、という「礼」の規定にそむいていたとは! これは大ショックだ。

五経童子よ、どう解釈したらいいのだろうか。

―――はあ。(五経童子は慌てず騒がず、)まずですな、

国君十五而生子、礼也。二十而嫁、三十而娶、庶人礼也。

国君十五にして子を生ずるは礼なり。二十にして嫁し、三十にして娶るは庶人の礼なり。

君主階級のひとは十五歳でコドモを作るのが「礼」(社会規範)なのじゃ。二十歳でヨメに行き、三十歳でヨメもらう、というのは一般人の規範なんじゃよ。

ということを、唐の孔穎達が言っておりまちゅる。

「なるほど。それなら矛盾しないね」

―――ところがここでまた問題が出てきまちた。実は孔子のコドモが出来た歳が十九歳だ、という考証が出てきまちた。孔子は君主ではありませんから、礼に反したのであろうか。いやいやそんなはずはありません。そこで、

以爲男十六以上可娶、女十四以上可嫁。三十娶二十嫁言其極法者。

おもえらく、男十六以上は娶るべく、女子十四以上は嫁すべし、と。三十娶りて二十嫁するは、その極法なるものを言うなり。

おそらく、男は十六歳以上でヨメをもらってよろしいし、女は十四歳以上になればヨメに行ってもよろしいのです。「三十歳でヨメもらい、二十歳でヨメに行く」というのは、その一番後れた者について、絶対にケッコンしなければならない極限状態を言ったものなんです。

むかしは、この年齢まで婚期を逸している者を、「媒氏」が強制的にケッコンさせたんです、ということを、清の孫詒譲が言っておりまちゅね。

ということで、すべて矛盾なく説明できるのでちゅ。

「なーるほど。さすがは聖人たちだ、礼の規定に反するようなことはしていかなったんだね」

―――そうでーちゅ。なお、「周礼」の「媒氏」はこのあと、

中春之月、令会男女。於是時也、奔者不禁、若無故而不用令者、罰之。

中春の月、男女をして会せしむ。この時におけるや、奔する者も禁ぜず、もし故無くして令を用いざる者は、これを罰す。

二月(現代の三月中下旬)の陽気のいい季節に、男と女を集めて出会いの場を設ける。この時においては、自由恋愛を許可する。もし(服喪などの)理由無く集まって来ない者には処罰が与えられる。

という有名な古代歌垣の記事があったりして興味が尽きませんでちゅねー。

みなさんも、五経の記述について疑問点などがあったら、おいらに訊いてくだちゃい。それでは、今日はちゃようならー。(軽快な感じの音楽)

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わーい、疑問が晴れてよかったなあ。・・・以上、だいたい清・孫詒譲「周礼正義」の解釈を参照しました。

 

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