平成30年5月15日(火)  目次へ  前回に戻る

如何に立派なぶた機関車といえども・・・

まともに石炭を入れる能力がなければ走らないであろう。

俗世においては火曜日ですかな。わたしは俗世を離れているので何曜日でも気になりませんが、はやく週末が来るといいなあ、と思ったりもします。今週末は、夏になってきて頭が痒いので髪切りに行くなど、何か自分のタメになることをしたいものだなー。

・・・・・・・・・・・・・・・

今日は珍しくタメになるお話をしましょう。

ただし、もちろん肝冷斎一族にはタメになるお話はできないので、戦国の大儒・荀況先生にお願いすることにしました。よろしくお願いします。

―――うむ、それではタメになる話をいたしますぞ。

まずはこのコトバを聞きなされ。

蹞歩不休、跛龞千里、累土不輟、丘山崇成。

蹞歩(きほ)休(や)まざれば跛龞(はべつ)も千里し、累土輟(や)めずんば丘山も崇成(すうせい)す。

「蹞」(き)は「ひと足」。「跛龞」は足の悪いすっぽん。たいへんのそのそ動くモノ、の代表として掲げられる。

一歩一歩進むことを止めなければ、足の悪いすっぽんだってやがては千里の遠くまで行くことだろう。少しづつの土でも積み上げることを止めなければ、やがては丘や山を高々と築き上げることができるだろう。

継続は力なり、ですぞ。努力を続けなければなりません。

厭其源開其瀆、江河可竭。

その源を厭(ふさ)ぎその瀆を開けば、江河も竭(つく)すべきなり。

水源を塞いでしまい、そこに溜まった水を別のところに導く溝を作ってやれば、長江や黄河でも干上がらせてしまうことができよう。

やろうと思えば何でもやれる。一方、

一進一退一左一右、六驥不致。

一進一退し一左一右すれば、六驥(ろくき)なりとも致らざらん。

一頭は前に進み一頭は後ろに退き、一頭は左に行き一頭は右に行くならば、六頭立ての馬車であっても目的地に至ることはできまい。

さて。

彼人之才性之相懸也、豈若跛龞之与六驥哉。然而跛龞致之、六驥不致、是無他故焉、或爲之、或不爲之耳。

彼の人の才性の相懸くるや、あに跛龞の六驥とするがごときならんや。しかるに跛龞のこれに致り、六驥の致らざるは、これ他故無きなり、あるいはこれを為し、あるいはこれを為さざるのみ。

ニンゲンというものの生まれつきの才能の違いなど、足の悪いすっぽんと六頭立ての馬車の違いに比べればどれほどのことがありましょうか。ところが、足の悪いすっぽんが千里のかなたに行きつき、六頭立ての馬車が行きつけないのは、決して他に理由があるわけではない、ただやろうとしたかしなかったか、これだけでござる。

おわかりでござろうが・・・(と、ここで荀先生はみなさんをぎろぎろと見回した。)

道雖邇、不行不至。事雖小、不爲不成。其爲人也、多暇日者、其出人不遠矣。

道邇(ちか)しといえども行かざれば至らず。事小といえども為さざれば成らず。その人となりや、暇日多き者は、その人に出でるとも遠からざるなり。

すぐ近くまでの道程だといっても、行かなければ行きつかない。大したことのないシゴトだといっても、やろうとしなければ成し遂げられない。

そのひとが、もしヒマな日が多い(サボってばかりいる)ならば、そのひとがもし人より目立つときがあったとしても、それほど抜きんでることは出来(ず、やがて埋没していくしか)ないだろう。

そこまでお話しになられて、先生はまたぎろぎろ見回して、わたしにぎろりと視点を定めますと、

「肝冷斎! 何ゆえ蒼ざめ、ぶるぶると震えているのか!」

と一喝なされた。わしは

「お、おゆるしくださいませ!」

とその場に突っ伏したのであった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「荀子」修身第二より。・・・突っ伏したのですが、じっと下向いているうちに先生も他のみなさんも「今日はここまで〜」とか言ってぞろぞろと帰っていきました。起き上がるともう誰もいないので、わしは「まあいいか、今度また反省しよう」と言って帰ってきて、あんまり深く考えないことにして風呂入って寝ます。わははは。みなさんはよくよく自分の問題として考えてみるといいと思いますよ。

 

次へ