世界には敵対するものがひしめいており、僅かなミスが失敗と嘲笑を惹き起こすものであるので、現世に在ると緊張を強いられることとなる。
おそろしい平日が始まったようですが、肝冷斎一族は現世とは絶縁しているので大丈夫です。
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昔話でもいたしましょう。
昔有婦人富有金銀。
昔、婦人の金銀を富有する有り。
むかしむかし、大金持ちの女のひとがいたのだそうです。
この女の人は、
与男子交通、尽取金銀衣、相追倶去。
男子と交通し、尽く金銀衣を取りて、相追いてともに去りぬ。
ある男とつきあい、保有する金銀や衣服をすべて持ち出して、その男と互いに示し合わせて駆け落ちした。
やがて、
到急水辺、男子言、爾持財物来。我先度之、当還迎爾。
急水のあたりに到り、男子言う、なんじ財物を持ち来たれり。我まずこれを度(わた)して、まさに還りてなんじを迎うべし、と。
激しい流れの川のほとりまで来た。そこで、男が女に向かって言うには、
「おれはお前さえいればよかったのだが、お前は財物を持って逃げてきた。しかたがないから、おれはまずこの財物を持って向こう岸に渡り、それから戻ってきておまえを迎えにこよう」
と。
「わかりましたわよ」
男はまず女の携えてきた財物を衣服に包み、これを頭の上に乗せて急流を渡り切った。そして、向こう岸につくと、なんだか大笑いし、こちらに向かって
「あばよ」
と手を振ると、
便走去、不還。
すなわち走り去り、還らず。
財物だけを持ってどこかに行ってしまって、戻って来ません。
なるほど。
これは、女のひとは騙されたのです。
婦人独住在水辺、見狐。
婦人ひとり水辺に住(とどまり)在りて、狐を見る。
女のひとがひとり川のこちらに取り残されてぼんやりしていると、キツネが見えた。
キツネは、川で捕らえた魚を咥えて岸辺に戻ろうとして、
捕取鷹、舎取魚。
鷹を捕取せんとして、魚を舎取す。
見つけたタカを捕らえようとして、魚を棄ててしまった。
魚はぼちゃんと川に落ちて、すいすいと泳いでいき、タカはキツネが近づく前に羽ばたいて空に舞い上がって行った。
不得魚、復失鷹。
魚を得ず、また鷹を失えり。
魚を失くしてしまい、タカも逃してしまったのだ。
「おほほほ・・・」
女のひとはそれを見て笑い、
爾何痴甚、捕両不得一。
なんじ、何ぞ痴の甚だしき、両を捕らんとして一を得ず。
「おまえは、なんとオロカ者だこと! 二つのものを捕まえようとして一つも手に入れられなかったのだ」
これを聞いて、キツネ応えて曰く、
我痴尚可、爾痴劇我也。
我の痴なお可なるも、なんじの痴は我よりも劇(はげ)しきなり。
「おいらをオロカというのはまあそうでコン、だけど、おまえさんのオロカはおいらよりずっとすごいですコン」
と。
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「雑譬喩経」(「旧雑譬喩経」三国呉・天竺三蔵康僧会訳)より。
女は男と財物を失った。キツネは魚とタカを失った。失ったモノの数は同じではないか。あるいは仏教的にはすべてを放却してしまう女のひとの方がえらいような気もするのだが、なぜキツネより女のひとの方がオロカだと言われねばならないのか。キツネは魚もタカも自分の力でまた捕らえることができる(ような気がする)が、女のひとは男も財物も自分の力では再獲得することができない、ということなのだろうか。・・・わーい、しまった、女性を批判してしまった、セクハラだ、犯罪だ、よくわからんが恐ろしいことである。南無三宝!