「どこにメシがあるのでコケ―!」と侵略してくるものもいたりするであろう。↓参照。
今日は昼も夜もアウトドアでぜいたくな食事をしてしまう。苦しい。体中全部メシになったみたいである。
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唐の時代のことです。
あるとき、雪峯義存禅師が弟子たちをぎろぎろと見回して、
飯籮辺坐餓死漢、臨河渇死漢。
飯籮(はんら)辺に坐するの餓死漢あり、河に臨むの渇死漢あり。
飯籮(はんら)はご飯を入れておく竹のかごらしいんですが、以下では「お櫃」と訳しておきます。
「ここには、飯を入れたお櫃の横に座ったまま飢え死にしてしまうやつとか、河のほとりで渇き死にしてしまうやつがいるのう」
と言ったそうです。・・・@
(真理はすぐそばにあるのに、なんでお前らは気づかないのだ?)
ということなんでしょう。
玄沙師備禅師はその雪峯義存の弟子である。
あるとき弟子が、
「禅師さまは雪峯義存さまのお弟子でちゅから、@を聞いたんでちゅよねー。どう思われますか」
すると玄沙は、弟子たちをぎろぎろと見回しながら、
飯籮裏坐餓死漢、水裏没頭浸渇死漢。
飯羅裏に坐するの餓死漢あり、水裏に没頭浸するの渇死漢あり。
「ここには、飯を入れたお櫃の中に座ったまま飢え死にしてしまうやつとか、水の中に頭まで浸かって渇き死にしてしまうやつがいるようじゃぞ」
と言ったそうです。 ・・・A
(なんで気づかんのじゃ! ほんとに気づいてないの?)
ということなんでしょう。
五代の禅僧・雲門文偃禅師に、弟子が訊いてみました。
「@もAも有名なお話でちゅが、禅師さまはど思われまちゅ?」
すると雲門は、弟子たちをぎろぎろ見回しながら、
通身是飯、通身是水。
通身これ飯なり、通身これ水なり。
「おまえらの体は全部メシ、おまえらの体は全部水なんじゃぞ」
と言ったそうです。 ・・・B
わーい、もうなんにも気づく必要ないんだ、いつでも食べたり飲んだりできるんだ、即身成仏だーい!
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妙喜頌禅師、@からBのコトバを紹介して、それから弟子たちをぎろぎろと見回した。弟子たちは何か言わないといけないのかなー、とドキドキしていたのですが、禅師は
喝。カツ!
と言いまして、
通身是飯、通身是水、那裏得這消息来。
通身これ飯、通身これ水ならば、那裏よりこの消息を得て来たらん。
「体は全部メシ、体は全部水、そんなやつが、いったいどこからそのことを認識しやがったのか!」
と言いました。
みなさんも考えてみてください。うっしっし。
以上、「聯灯会要」巻二十三より。