半窗の花影 人初めて起き、一曲の桐音 月正に高し。・・・と書いてありますね。一か月ぐらい前に書いたので、どこから引っ張ってきたのかもう忘れたんですが、どこかの文人がどこかの妓女に送った詩句が気に入ったので切り取ったんです。ウソではないんです。
今日はエイプリルフールなので、ここから先はほんとのことは言えません。ウソのことしか言えないんです。とはいえ、あしたから平日だなあ。今週も充実した職業生活を送れるに違いないなあ。
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長州県城の東二十里(10キロ前後)ばかりのところに陽城湖という湖がある。伝説では、ここに昔、陽城という町があったのだが、ある日、
陥没為湖、其来久矣。
陥没して湖と為り、その来たるや久し。
突然陥没して湖になってしまった。それは遠い遠いむかしのこと。
だという。
漁人於湖水清時、往往見其下有街路。疑是此県之故道也。
漁人、湖水の清時に、往往にしてその下に街路有るを見る。疑うらくはこれ、この県の故道ならん。
漁師たちは、湖の水が澄んだ日などに、往々にして水面の下に町の道があるのを見ることがあり、おそらくそれは陽城の町の古い道なのだろう、と言われていた。
ところが、萬暦十七年(1589)のこと、
大旱、湖浜水涸見底、忽露出大棺、長可三丈許。
大旱し、湖浜の水涸れて底を見(あら)わすに、忽ち大棺を露出し、長さ三丈許(ばか)りなるべし。
大いに日照りが続き、この湖の水が涸れて、岸辺近くの底が見えたことがあり、そのとき巨大な棺が露出してきた。その長さ5メートル以上というものであった。
付近の百姓らが集まってきて、
破之、見一長人巨首臥其中。衣皆灰燼糜爛、但存髑髏、巨如車輪。
これを破るに、一長人の巨首なるがその中に臥すを見る。衣みな灰燼糜爛し、ただ髑髏の巨いさ車輪の如きを存するのみ。
棺を開けてみたところ、中にはでかい頭の巨大なひとが寝葬されていた。衣服などはすべて風化してばらばらになっており、ただ人骨だけが残っていたのだが、その頭骨は車輪のような大きさであった。
「わーい」「でかいひとでちゅねー」
また、
棺上朱漆片色尚鮮明、不知何代墳墓。有石碑二尺許、文字摩滅不可弁。
棺上に朱漆の片あり、色なお鮮明なれども、何れの代の墳墓なるかを知らず。石碑二尺許りなる有るも、文字摩滅して弁ずべからざるなり。
棺の表面には、塗られていた赤い水銀のかけらが残っており、その色はなお鮮明にわかるのであったが、いったいいつごろ作られたものか、判然としない。手がかりになりそうな60センチぐらいの大きさの石板が発見されたが、表面が摩滅していて文字の痕など判読できる状態ではなかった。
・・・というウワサを耳にしたんです。実はこのときわたしは近くの漁子沙というところに住んで、学問をしていたのだが、
異其事、往観之、碑尚在土中未出。
その事を異として往きてこれを観るに、碑なお土中に在りていまだ出でず。
たいへん不思議なことだというので、わざわざ出かけて行って現場を見た。このときにはその石板は、まだ土の中に埋まっていて(そのままでは文字が読めないので)これから掘り出す、という状態であった。
ドクロの方は別途保存されているはずだということで、現場で実物を見ることはできませんでした。
それから数日してからまた見に行くと、
将磨洗碑文、則居民已毀砕其石、沈之湖心矣。
まさに碑文を磨洗せんとするに、居民すでにその石を毀砕して、これを湖心に沈む。
引き上げた石碑を洗って表面をはっきりさせようとした矢先に、付近の人民どもが
「わーい、こわしちゃえ」
と石板を砕いてしまい、その破片を湖の中心部の水の残っているところに沈めてしまった。
と聞いて、大ショックであった。
おまけにドクロや棺の実物も、どこかに行ってしまって確認することができなくなっていた。
けだし、
恐爲郡県所知、相与寝滅其事耳。遂歎息罷還。
郡県の知るところと為るを恐れ、あいともにその事を寝滅せしのみならん。ついに歎息して罷めて還れり。
地方の役所に知られて、いろいろと取調べを受けることを嫌がって、人民たちが相談して「何も無かった」ことにしてしまったのであろう。わたしはため息をついて、諦めて帰ってきたものであった。
あーあ、もう少しみんなが文物への理解を持ってくれていたら、世紀の大発見だったのになあ・・・。
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明・銭希言「獪園」第十六より。なんだかあちこちにウソがありそうなんですが、追求してはいけないんだと思います。エイプリルフールだし。
ところで昨日はPCの調子がよくてスカスカと更新のアップができました。新年度に入った本日は如何でしょうか。