平成30年2月15日(木)  目次へ  前回に戻る

多数のタコの中に時折「悪タコ」がいるように、完全な善の状況を作り出すことは困難であり、聖人であっても苦労するものである。

少し春になってきたような気がします。今日の朝から少し花粉的な症状が出てきたことから想像されるのである。

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宋の時代のことです。

黄州府の西北百余里(一里≒600m)の地で、古代の編鐘が発見された。編鐘というのは、音程の違う鐘を複数、たいてい数十つりさげて、叩いて鳴らす楽器である。

鐘は欧陽院というお寺に保管されているというので、黄州知事の蘇東坡はただちに見学に行きました。

院の僧の話では、

得之耕者。発其地、獲四鐘、斸破其二。

これを耕者に得る。その地を発するに、四鐘を獲るも、その二を斸破(しょくは)せり。

「これは畑を耕していた者が見つけたのでございます。地中から掘り出したときには、四箇がセットで出て来たのでございますが、うち二つは壊れてしまっていたのです」

そうすると二つあるはずだが、

一為鋳銅者取去、独一在此耳。

一は鋳銅する者取りて去り、独り一のここに在るのみなり。

「一つは銅専門の鍛冶屋が持って行き、何かに鋳直す原料にしたようです。最後に残った一つがこれなのでございます」

へー。そうなんだ。

これを叩いてみました。

ぽこーん。

其声空籠、然頗有古意。雖不見韶濩之音、猶可想見其彷彿也。

その声空しく籠せるも、しかるに頗る古意有り。韶濩(しょうご)の音を見ずといえども、なおその彷彿たるを想見すべし。

「音を見る」とは変な言い方ですが、この「見る」は「経験する」ぐらいの意味にとってください。

すると、音が籠って、あまりいい音では鳴らなかった。しかし、たいへん古風な雰囲気がある。この音を聴けば、名高い「韶濩」(しょうご)の音楽は、いまとなっては聴くすべもないのであるが、それでもぼんやりと想像することはできるであろう。

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宋・蘇東坡「東坡題跋」より「書黄州古編鐘」(黄州の古い編鐘について書く)。本来複数ある「編鐘」ですが、もう一つしか遺っていなかった。それでも昔の姿を想像することができたんです。賢者はみんな想像力が強いものなんです。

「韶濩の楽」について解説しておきます。

春秋の時代、襄公二十九年(前544)、呉の賢者・公子札が魯にやってきた。「左氏伝」によれば、この時、子札は魯に伝わる周の古い音楽を聴くことを願ったので、楽師たちに命じて順次演奏せしめた。

見舞韶濩者、曰、聖人之弘也。而猶有慙徳、聖人之難也。

「韶濩」を舞う者を見るに、曰く「聖人の弘なるなり。しかるになお慙徳有るがごときは、聖人の難なるかな」と。

「韶濩」の曲を演奏し、それに伴う舞踊を見せたときに、公子札が言うには、

「これは聖人の広大な心持ちを表していますね。しかし、どこかに自分自身を批判するところがあるようだ。聖人であることは難しいことがわかりますね」

と。

杜預の注にいう、

韶濩殷湯楽。

韶濩は殷の湯の楽なり。

「韶濩」というのは、殷の初代・湯王の作った楽曲である。

湯王は聖徳の持ち主で、民の声に押されて夏の桀王を倒し、殷王朝を開いたひとであるが、いかに正義のためとはいえ、武力を用いて夏王を討伐したことを生涯反省していた。公子札は曲を聴いただけで、その湯王の思いを推し量り、想像することができたのである。

なお唐の孔穎達の疏によれば、

以其防濩下民故称濩也。韶亦紹也、言其能紹継大禹也。

その下民を防濩するを以ての故に、「濩」と称するなり。「韶」はまた「紹」なり、そのよく大禹を紹継するを言うなり。

しもじもの人民を防ぎ守るという趣旨で「濩」というのである。また、「韶」というのは「紹(つ)ぐ」のことで、湯王が夏の初代・禹王のしごとを承継したことを表すのである。

すなわち「民を守るという禹王のしごとを承継する」という湯王の思いを表現した曲だったのだ。いにしえの聖なる王の御世に生まれていれば、シゴトなんかしなくても守ってもらえたのだろうなあ。今日からもう出勤してませんけどね。

 

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