いがみあってばかりでは術をかけられることもあり、注意が必要である。
「寒いからほかの関係者探しに行くのめんどくさいからな。よし、謎のじじい、今日もお前に更新させてやる」
と命じられたので、今日もわしがやることに。この寒いのに、キビシイことである。
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清の光緒丁未年、というのは、西暦ではもう1907年になりますが、この年、チベットの達頼喇嘛(ダライ・ラマ)がロシアに亡命せんとし、チベットに駐箚していた清の弁事大臣・達寿(だるす)が追手を差し向け、ロシア国境の手前で確保して、甘粛・西寧にお連れ戻し申し上げた。
ところが、西寧の地は阿嘉囉嘛(アカ・ラマ)の本拠である。
めんどうなことになった。
達頼以掌理天下釈教自居、不肯往謁阿嘉、而阿嘉亦以西寧一帯為管轄之地、傲不相下。
達頼は天下の釈教を掌理するを以て自居すれば、阿嘉を往謁するを肯んぜず、しかして阿嘉もまた西寧一帯を以て管轄の地と為して、傲として相下らず。
ダライは天下の仏教徒全体を管理するのは自分だと思っているから、アカのところに行って挨拶することなどしようがはずがないし、一方のアカもこの西寧一帯の土地は自分の支配下だと思っているから、自分から折れようなどとはしなかったのだ。
こんなことで、
彼此悪感既深。
彼此の悪感すでに深し。
こちらとあちらの悪感情というのがたいへん深まってしまった。
お互い取り巻きもいるし、収まるものでもない。
と、いがみ合いになっていたが、
未幾、阿嘉適以疾卒、年未三十也。
いまだ幾ばくならずして、阿嘉たまたま疾を以て卒す、年いまだ三十ならざるなり。
しばらくしたころ、アカの方がちょうど病気になって亡くなってしまった。年齢はまだ三十にさえなっていなかった。
すると、
其徒衆大譁、控之西寧弁事大臣慶恕、謂達頼以術殺人。
その徒衆大いに譁(さわ)ぎ、これを西寧弁事大臣・慶恕に控して、「達頼術を持って人を殺せり」と謂えり。
アカのグループの者たちが大騒ぎを始めた。西寧の弁事大臣の慶恕のところに訴え出て、「ダライのやつは、秘術を用いて人を殺したのだ」と言い出したのだ。
慶恕がひとびとを引き連れてダライのところに赴いたところが、住居の裏に大量にモノを埋めたあとがあった。
掘り返してみると、ドウブツの頭骨が続々と出てきたのである。
これはダライが、
以牛羊等獣之首埋於土、加以禁呪、為魘勝之事。
牛羊等の獣の首を以て土に埋め、禁呪を以て加え、魘勝の事を為せるなり。
ウシやヒツジなどのケモノの頭を斬り取って土中に埋め、これに禁じられている黒魔術の秘密呪文を唱えて、相手を呪殺する術をかけたのだ!
と原告らは主張した。
「そうかも知れんなあ」
慶恕はダライを詰問し、出頭するよう命ずる文書をダライのもとに送ったが、ダライは、
行此法者係感謝大皇帝相待之優。故藉以祈福、並無他意云々。
この法を行うは、大皇帝相待の優を感謝するに係る。故に藉(か)りて以て福を祈るのみにして並びに他意無かりき、云々。
この術を行ったのは、皇帝陛下のわれらへの対応のありがたさを感謝するためのものである。このために、このドウブツたちの霊力を借りて、陛下の幸福を祈っただけで、他に何かをしようというキモチはまったくありません。
・・・などと言ったので、
「そうですか。なるほどなあ」
後亦不復究。
後はまた復究せず。
それ以上はもう追求されることは無かった。
のだそうでございます。
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民国・徐珂編「清粺類抄」宗教類より。ラマたちの戦いもキビシかったようであるし、歯向かえば自分が術でやられるかも知れないので、裁判する方もキビシイ地位であった。