カンペキな設計に基づくぶたロボットでさえ操縦通りには行動しないのである。不完全なニンゲン同士で言うことを聴くはずがないであろう。
本日もアルコール入って帰ってきた。眠いのでひと眠りしましたが、頭いたい。
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漢の大学者・鄭玄が、自分の息子に宛てて戒めの手紙を書いている。
それを読むと、いろいろ書いた末尾に、
若忽忘不識、亦已焉哉。
もし忽忘して識らざれば、また已んぬるかな。
・・・いろいろ書いたが、そんなものすべて忘れてしまって覚えてない、ということになったら、どうしようもない(からどうでもいいや)。
と書いている。
ああ、これこそ
正孟子所謂父子之間不責善也。蓋不責善、非不示于善也、不責其必従耳。
まさに孟子のいわゆる「父子の間は善を責めず」なり。けだし、善を責めざるは、善において示さざるにはあらず、その必ず従うを責めざるのみ。
まさに孟子のいう「親子の間では倫理的に善であれ、という要請はしない」ということであろう。善を要請しないのは、こういうことをすれば善であるということを教えない、ということではなく、(それは教えるのだが、世代の間に社会にも変化があるので)結果としてそれに従うかどうかまでは求めない、ということなのだ。
陶淵明の「子に命ずる」の詩の中に、
夙興夜寐、願爾斯才。 夙(あした)に興き夜に寐るに、爾の斯れ才なるを願う。
爾之不才、亦已焉哉。 爾これ才ならざれば、また已んぬるかな。
朝起きても夜寝る時にも、おまえが才能あるひととなることを願っている。
しかし、おまえが才能が無かったら、どうしようもない(からどうでもいいや)。
という一節あるが、これは
用康成語也。
康成の語を用うるなり。
「康成」は鄭玄の字である。
鄭玄のコトバを用いているので、それを下敷きにすれば意味がわかる。
努力は求めるが、結果は求めていないのである。
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宋・陸放翁「老学庵筆記」巻八より。おれの子どもにここまで求めてもムリかなあ・・・というキモチなのでしょう。部下に対してもこのようであっていただきたいものである。
・・・ところで、上の「孟子」の言葉は、「離婁上篇」に出てきます。明日は勤労感謝の日でお休みですから、今日は夜更かしをしていい日なので、せっかくだから朱子の「孟子集注」の注で読んでみますと、
弟子の公孫丑が孟子に訊ねた。
君子之不教子、何也。
君子の子を教えざるは何ぞや。
「立派なひとは自分では自分の子を教えない、そうですが、何故でしょうかな?」
孟子答えて曰く、
勢不行也。教者必以正、以正不行、継之以怒。継之以怒、則反夷矣。夫子教我以正、夫子未出於正也。則是父子相夷也。父子相夷、則悪矣。
勢として行わざるなり。教なるものは必ず正を以てし、正を以て行わざれば、これに継ぐに怒を以てす。これに継ぐに怒を以てすれば、すなわち反って夷(やぶ)るなり。「夫子我に教うるに正を以てするも、夫子いまだ正に出でず」。すなわちこれ父子あい夷るなり。父子相い夷るは、すなわち悪なり。
難しい文章ですが、「夫子」とは子がおやじのことをこう呼んでいるのだ、というのが朱子の解釈です。
影響があるから教えるということはしないのである。教えるということは、必ず正しいことをさせようとするもので、正しいことをしないなら、次には怒らないといけない。怒ったならば、(本来子どもが可愛いので教えていたはずなのに)かえって子どもを傷つけてしまうことになる。(子供の方からしても)「おやじどのはおいらに正しいことをしろと教えたが、おやじどのの方だって正しいことばかりしていたわけじゃないではないか」(と父を傷つけることになってしまう)。こうなれば、父と子が互いに傷つけあうことになり、父と子が互いに傷つけあうことは悪いことである。
だから君子は自分の子を教えず、
古者易子而教之。
いにしえは子を易(か)えてこれを教う。
むかしは子どもを交換して教えていたのだ」
「なーるほど」
そして、結論として、孟子が、
父子之間不責善。責善則離。離則不祥莫大焉。
父子の間は善を責めず。善を責むればすなわち離る。離るれば不祥莫大なり。
「父と子の間では倫理的な善を要求しない。善を要求するようなら乖離してしまう。父と子が乖離してしまうなら、これほど不幸なことはない」
と言明する、という会話になっております。
朱子が補足していますが、それでは「倫理的な善」は誰が要求するのか。
責善則友之道也。
善を責むるはすなわち友の道なり。
倫理的な善を要求するのは、朋友のすべきことでありまちゅ。
ただし、父と子の間でも求めていいこともあるんでちて、唐の王通さんの本にこんなことが書いてありまちたよ。
父有争子何也。
父に争子有るはいかん。
「あるひとに、いろいろ諫めてくれる子どもがいたとします。これはどうであろうか」
王通先生曰く、
所謂争者非責善也。当不義則争之而已矣。
いうところの「爭」なるものは善を責めるにはあらざるなり。不義に当たりてこれを争うのみ。
「おっしゃるところの「諫める」というのは、善を要請するのではございますまい。義理に悖ることをしようとしているときに、それを注意するだけであれば、よろしいのではないでしょうか」
父之於子也如何。
父の子におけるや如何。
「それでは、おやじが子どもに対していろいろ諫めるのはどうですか」
当不義則又戒之而已矣。
不義に当たればまたこれを戒めるのみ。
「その場合も、義理に悖ることをしようとしているときに、それを注意するだけならよろしいでしょう」
なんだそうでーちゅ。
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おやじが「そんなことはするな」というのは言うことを聴かねばならないが、「こうしろ、ああしろ」と言ってきたら「うるせー」と言ってもいいんだ、ということだと思います・・・かな。
と思っているうちに、すごい夜更かししてしまった! 今晩も亡命準備ができていない ( ;∀;)!