これはアンコウではなくナスである、と、だまされて一生過ぎていくこともあるのである。
週末までまだ三日もあるんです。・・・と、こんなことばかり毎日言っているので週末大好きなんだろうなあ、と思われているかも知れませんが、実はそうでもなくて、毎日あんまり楽しくない、というのが実情である。よろいかぶとを脱いでどこかに去ってしまいたいところである。
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むかし、飯田覚兵衛直景というひとがいたんです。加藤清正の侍大将として有名で「日本槍柱七本」の一に数えられ、朝鮮半島でも大活躍、熊本城、大阪城、江戸城などの築城にも手腕を発揮した。
このひとが晩年、人に語って言うに、
吾一生為主計頭清正公所瞞過矣。
吾が一生、主計頭(かずえのかみ)清正公の瞞過するところとなれり。
「わしは一生を加藤清正さまにだまされて過ごしてしまったのですじゃ」
と。
「なんとそりゃ、どういうことですかな?」
と水を向けてみますと、覚兵衛が言うには、
吾之従軍、冒矢砲、踰屍而進者数矣。及軍既罷、顧見同儕死亡相枕。乃、然意悔、欲脱戎服去。
吾の軍(いくさ)に従うや、矢砲を冒し、屍を踰(こ)えて進むことしばしばなり。軍の既に罷むに及びて、同儕を顧見するに、死亡相枕せり。すなわち、然として意悔い、戎服を脱ぎて去らんと欲す。
「わしらはいくさに行けば、矢や鉄砲の下をかいくぐり、死体を踏みつけながら進軍することが何度もあった。その苦しいいくさが終わってまわりを見回すと、朝までいっしょに歓談しあっていた仲間たちが、並んで死んでいる。そんなとき、無性に悲しいキモチになって反省し、よろいかぶとを脱ぎ捨ててどこかに行ってしまいたい!・・・と何度も思ったものじゃった。
今回こそ、主君にそのように申し出よう・・・と思うのだが、
賞賜随及焉、曰今日之捷、因汝之功。
賞賜の随い及ぶに、曰く「今日の捷、汝の功に因る」と。
恩賞をいただく段になると、(清正公が)「今日勝利出来たのは、おまえのおかげじゃ」とほめてくださる。
すると、
吾感恩遇之厚、欲去而不能。
吾、恩遇の厚きに感じて、去らんと欲してあたわざるなり。
わしは殿の恩と厚遇に感じ入ってしまい、お傍を離れたいのです、と言えなくなってしまうのじゃった。
終至為隊将。
ついに至りて隊将に為れり。
そうこうしているうちに、侍大将にまでなってしまった。
こうなると部下も出来、おいそれと逃げ出すこともできなくなってしまったのじゃ。
是非為其所瞞過耶。
これ、その瞞過するところとなるにあらざるや。
これは、一生を殿にだまされて過ごしてきた、と言わざるを得ないであろう」
「なるほど。これは一本とられましたわい」
おしまい。
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訂正増補「皇朝言行録」巻九より。自分の人生なので、だましてくれる主君もいないのであれば逃げ出すべきである、のかも知れませんね。
飯田覚兵衛さんはどこかで聴いた名前で、と思ったら、このひとでした。わずか二か月前のことなのにもう忘れていたとは、我が老いたることの甚だしきかな。司馬遼太郎先生に「覚兵衛物語」という作品があるので、詳しくはそちらをご覧ください。なお、無用のことながら(←司馬先生ふうに)―――覚兵衛は加藤家おとり潰しの後は黒田長政に拾われて、ために次男の家は代々福岡藩に仕えたのだそうですが、長男の家は熊本に残って細川家に仕えた。そのずっと子孫に、家老・長岡家の家臣で二十五俵取りの下級士族・飯田権五兵衛というひとがおりました。天保十四年(1844)、その三男に多久馬(たくま)というコドモが生まれまして、長じて神童の名をほしいままにし、井上家に養子に入って名前も毅(こわし)と改めた。維新の後、伊藤博文の懐刀として憲法制定や条約改正に活躍する独々斎・井上毅そのひとであります。