「待ちにゃ。おまえさん、肝冷斎にゃろう?」「人違いでござんぶー。おいらはぶた肝冷斎でござんぶ」「にゃんだ、人違いにゃのか」「ちゅう」「もぐー」
月曜日。新たな週が始まった。みなさんごくろうさんです。
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悠悠塵裏人、 悠々たり塵裏の人、
常楽塵中趣。 常に塵中の趣を楽しむ。
この「悠々」は「数が多い様子」です。
ぞろぞろといる塵の中で暮らすひとびとは、
いつも塵の中のことを楽しいと思っているようじゃ。
「塵の中」は世俗の汚れた世界のことですが、わしは塵の中にはおりません。
我見塵中人、 我、塵中の人を見て、
心多生愍顧。 心に多く愍顧(びんこ)を生ず。
「愍顧」は「顧愍」とも使いますが、あわれみをもって見ること。
わしは塵の中で暮らすひとびとをみると、
いつもかわいそうだなあ、というキモチを持つなあ。
何哉愍此流、 何ぞや、この流を愍(あわ)れむ、
念彼塵中苦。 かの塵中の苦を念えばなり。
どうしてあいつらがかわいそうなのかね?
かれらの塵の中での苦しみを思うからじゃよ。
これでおしまい。
まったくです。あまりにも直球の詩ですね。
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これは「寒山集」ではなく「拾得集」(二十七番)に入っている詩です。「寒山拾得」は寒山と拾得のふたりだから、二人の詩集は二人の個性を反映して少し違ったりするんだろうなあ、と思ってはいけません。もう人格とか個性とかは超越した方々ですから(実在したとしても)、「寒山集」も「拾得集」も同じ金太郎飴を切った右と左だと思ってください。
泉州の慶和尚がいう、
塵中人自老、 塵中の人はおのずから老い、
天際月常明。 天際に月は常に明るし。
塵の中にいるひとびとは勝手に年取っていくのだわ、
天空では、いにしえも今も月は輝いているのに。 (「景徳伝燈録」巻二十二)
なんです。みなさんも何とかしてこちらに来られるといいのでぶがなあ。
ところで、岡本全勝さんのHP(9月24日)で最近の肝冷斎の活動が称賛?されています。わーい、うれちいなー・・・ただし、今は「肝冷斎」ではなく「ぶた肝冷斎」の世代になっておりますので、念のため。