平成29年8月24日(木)  目次へ  前回に戻る

セミにも比すべきすさまじい無気力なる無気力公家。ニンゲンなのにニワトリにまで批判される無気力さである。

やっと会社から帰ってきた。セミなのに・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

セミらしく、歌でも歌って自分を取り戻そうと思います。

セミの本来の生活について。

琴書筆硯作生涯、  琴書筆硯、生涯を作し、

誰肯恋栄華。     誰かあえて栄華を恋んや。

 琴を爪弾き、書を読み、筆と硯で文字を書き―――そんなことで人生を送ってきた。

 それなのに、栄耀栄華の生活を願う者などいるだろうか。

そんなセミはいませんよ。

有時相伴漁樵話、  時に漁樵の話に相伴うこと有りて、

興尽飲流霞。     興尽きて流霞を飲む。

 時には、漁師や木こりたちと浮世離れした会話を交わし、

 興味が尽きるとあとは流れる霞(のようなお酒)を飲むんでいるばかり。

唐・李商隠「武夷山」詩に曰く、

只得流霞酒一杯、 ただ流霞の酒一杯を得て、

空中簫鼓幾時会。 空中の簫鼓、幾時にか会せん。

 いつの日か、流れる霞の酒を一杯いただいて、

 空に響く笛や太鼓の音(を伴って降りてくる天人たち)に巡り会いたい―――それだけがおいらの願いさ。

というように、詩の中で使われる「流霞」は仙界のお酒をいうのでみん。

こうして毎日毎日、

茶、不酔不帰家。   茶、酔わずして家に帰らず。

「茶」(ちゃ)は、「ああ」なんかと同じ間投詞。

あちゃー。わしは酔わずに家に帰ることなんか無いぞ。

いつも仙酒でいいキモチになってから家に帰るのでみんみん。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

元・無名氏(詠み人知らず)「仙呂・游四門」仙呂調の「四方の門をうろつく」の節で)。これ、おそらく元代のセミが詠んだのだと思いますよ、じじじじじ・・・・。

ところで、どうやら岡本全勝さんが復活したみたいで、岡本全勝さんのHPで肝冷斎のコトバを取り上げてくれているんです。アメリカに行ってて、肝冷斎がもう滅亡しているのを知らないらしいんですみんみん。

 

次へ