セミにも比すべきすさまじい無気力なる無気力公家。ニンゲンなのにニワトリにまで批判される無気力さである。
やっと会社から帰ってきた。セミなのに・・・。
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セミらしく、歌でも歌って自分を取り戻そうと思います。
セミの本来の生活について。
琴書筆硯作生涯、 琴書筆硯、生涯を作し、
誰肯恋栄華。 誰かあえて栄華を恋んや。
琴を爪弾き、書を読み、筆と硯で文字を書き―――そんなことで人生を送ってきた。
それなのに、栄耀栄華の生活を願う者などいるだろうか。
そんなセミはいませんよ。
有時相伴漁樵話、 時に漁樵の話に相伴うこと有りて、
興尽飲流霞。 興尽きて流霞を飲む。
時には、漁師や木こりたちと浮世離れした会話を交わし、
興味が尽きるとあとは流れる霞(のようなお酒)を飲むんでいるばかり。
唐・李商隠の「武夷山」詩に曰く、
只得流霞酒一杯、 ただ流霞の酒一杯を得て、
空中簫鼓幾時会。 空中の簫鼓、幾時にか会せん。
いつの日か、流れる霞の酒を一杯いただいて、
空に響く笛や太鼓の音(を伴って降りてくる天人たち)に巡り会いたい―――それだけがおいらの願いさ。
というように、詩の中で使われる「流霞」は仙界のお酒をいうのでみん。
こうして毎日毎日、
茶、不酔不帰家。 茶、酔わずして家に帰らず。
「茶」(ちゃ)は、「ああ」なんかと同じ間投詞。
あちゃー。わしは酔わずに家に帰ることなんか無いぞ。
いつも仙酒でいいキモチになってから家に帰るのでみんみん。
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元・無名氏(詠み人知らず)「仙呂・游四門」(仙呂調の「四方の門をうろつく」の節で)。これ、おそらく元代のセミが詠んだのだと思いますよ、じじじじじ・・・・。
ところで、どうやら岡本全勝さんが復活したみたいで、岡本全勝さんのHPで肝冷斎のコトバを取り上げてくれているんです。アメリカに行ってて、肝冷斎がもう滅亡しているのを知らないらしいんですみんみん。