平成29年8月23日(水)  目次へ  前回に戻る

このところ、すさまじく無気力である。タコ抜きのタコ焼きを食べてるかのようにやる気が出ない。

おいらはセミのみんみんまる。

今日は会社から電話がかかってきて、「肝冷斎の代わりにはやくシゴトに来い」と言ってきた。

「じじじじ・・・ニンゲンのコトバわかりません、おいらセミなので・・・」

ととぼけようとしたが、

「いいから、みんなと一緒にイヤな思いをしに来い」

と言われて、出勤させられる。セミの人生は長くないので、シゴトなんかしているひまないんですが・・・。みなさんは何百年も生きるからいいんでしょうけど。

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さて。

孔子さまが、衛の国に行ったときのことです。

遇旧館人之喪、入而哭之哀。出、使子貢脱驂以贈之。

旧館人の喪に遇い、入りてこれを哭すること、哀なり。出でて、子貢をして驂(さん)を脱して以てこれを贈らしむ。

たまたま、以前泊まらせてもらったことのあるひとの葬式に出くわし、葬儀の席に入って、声をあげて泣く礼をしたのだが、その様子はずいぶん悲しそうであった。

会場から出てくると、弟子の子貢に馬車のそえ馬を外して、それを遺族の方に香奠替わりに贈るよう、指示した。

「驂」(さん)は、二頭立ての馬車につなぐ三頭目の馬で、二頭に何かあったときのための「副え馬」です。贈り物に出来ないことはないが、旅の途中ではのちのちたいへんな困ることになるかも知れない。みんみん。

指示された子貢は「ぶびー」と不満げに言った。

於所識之喪、不能有所贈。贈於旧館、不已多乎。

識るところの喪に於いても贈るところ有るあたわず。旧館において贈るに、はなはだ多からずや。

この「已」は「太」と同じ意味なんだそうで、「はなはだ」と訓じます。

「この間、知り合いの葬式の時に、何も贈ることができませんでしたよね。今回、むかし泊めてもらったというだけのひとに贈るには、大げさに過ぎませんか」

孔子は言った、

吾向入哭之、遇一哀而出涕。吾悪夫涕而無以将之、小子行焉。

吾、さきに入りてこれを哭するに、一哀に遇いて涕(なみだ)を出だせり。吾、夫(か)の涕して以てこれを将(おこな)う無きを悪(にく)めば、小子行え。

「わしはさきほど葬儀の席に入って、声をあげて泣く礼をしたときに、悲しい思いが沸いて来て、涙を流してしまったのだ。わしは、涙を流しておいて何の行動にも移さないあのひとたちはイヤだと思っているんで、おまえ、言ったとおりにしてくれ」

肩書とかお付き合いの深さとかではなく、このひとの人格や境遇、遺族、あるいはこの人の家に泊めてもらっていたころの他の思い出との関係なのか、とにかく涙を流すような深い思いがあったのである。そんな思いがあったのに、肩書とかお付き合いの深さとか、そんなことが無いからといって贈り物をしないような、そんなタイプのひとだと思われるんはイヤなんじゃ。

「わかりましたでぶー・・・」

子貢はこれからの旅の長さを思って苦い顔をしながら、孔子の言いつけどおりに副え馬を外したのであった。

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「孔子家語」巻十(曲礼子貢問第四十三)より。

最後は「わしの我がままを聞いてくれ」と、正論を言う弟子に対して嘆願調になっています。このあたりが孔子さまの人気があるところなんでしょう。じじじ・・・。

セミのおいらがどうこう言うのも変なんですが、みなさんもニンゲンなんだから、ハウツーや損得だけでものごと割り切れぬニンゲンらしさを孔子さまから学べばいいのになあ。何かあると理屈だけ並べたてて「はい、論破!」でドヤ顔してていいんですかね、みんみん。

 

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