「由良の戸をわたるふな人かじをたえ・・・」曾祢好忠は貧乏で、ボロッチいので歌合せ会場から追い出されたりしたんです。まこと人生航路はツラいことばかり・・・。
東京地方、今日は寒いぐらい涼しかったです。もう秋だなあ。
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今から848年前の八月二日のことでございますが、意外とこの日の航路はうまく行ったみたいです。
八月二日、朝から(舟で)出発して、二十里(10キロ程度)も行かないうちに、
忽風雲騰涌、急繋纜、俄復開霽、遂行。
たちまち風雲騰涌し、急に纜を繋ぐも、にわかにまた開霽してついに行けり。
突然風が出、雲が湧きだしたので、急いで岸にともづなを繫いだが、すぐにまた晴れてきたので、結局出発した。
長江をさかのぼって彭蠡湖の入り口まで来ると四方にさえぎるものもなく、まことにこの景色をみて李太白が
開帆入天鏡。
帆を開きて天の鏡に入る。
―――おれを乗せた舟は帆をあげて、天がおのれを映す鏡であるかのような、このおだやかな水面に入って行った。
とうたったのがよく理解できた。
ここから、廬山と大弧山・小弧山が見えた。これらの山を見るのは初めてである。大弧山は西梁山に似ているが、伝説では小弧山は「小姑」(若い娘さん)で、大弧山に嫁いできたのだ、というのだが、小弧山そのものはきれいな女性を思わせるような山容ではなかった。だが、小弧山のふもとに葦の茂った中洲があって、ここから観ると、
大弧則四際渺彌皆大江、望之如浮水面、亦一奇也。
大弧はすなわち四際渺としてみな大江に彌(わた)り、これを望めば水面に浮かぶごとく、また一奇なり。
大弧山はその四方がすべてぼんやりと長江に広がり、遠く眺めれば水面に浮かんでいるように見えて、これはまたたいへんすばらしい。
ここに流れ着く一本の支流がいわゆる南江で、これは江西につながる水路である。
江水渾濁、毎汲用、皆以杏仁澄之、過夕乃可飲。南江則極清、合処如引縄、不相乱。
江水渾濁してつねに汲みて用いるには、みな杏仁を以てこれを澄ませ、夕を過ぎてすなわち飲むべし。南江すなわち極めて清、合処は縄を引くごとく、相乱れず。
長江の水は濁っていて、これを汲んで飲用するときには、水の中に杏のタネを入れて濁りを吸収させ、一晩過ぎてからやっと飲むことができるのだが、南江の水はとても清らかで、この水が長江の濁流に入り込むところは、まるで一本の縄を引いて仕分けたように、清濁が別になっていて混ざることがない。
不思議なことであります。
夕方に江州に到着。ここの州府は徳化県にある。唐の時代に李白や杜甫が立ち寄った潯陽城だ。五代・南唐の時代には奉化軍節度使の本拠であり、川岸が赤い岩壁になって続いているところは、我が宋の蘇東坡先生が「赤壁の賦」を作ったあたりである。
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宋・陸放翁「入蜀記」巻二より。南宋の大詩人、放翁・陸游が乾道六年(1170)に四川に赴任するときの日記である。時に数えで四十六歳、なので、今の肝冷斎よりは十歳ぐらい若い。おいらも十年前はまだ体も動いたし、感受性ももう少しあったかなあ・・・。
「入蜀記」は、船旅の様子を簡潔に記しながら間に各地の歴史や風景を描いていて、まるで自分が長江をさかのぼる旅をしているかのように錯覚するような、「紀行記」のお手本とされるほどの本です。しかも文章が(もちろん漢字ばかりですが)非常に読みやすくてごろごろしながらでも読める。
おいらもごろごろしながら、「そうか、この日、八月二日はあんまり暑くなさそうで、今日みたいに涼しい日だったのかな・・・」と思いましたが、よく考えたら旧暦だから今の感覚では9月の中旬に近いぐらいのはず。ヒートアイランドもしてないし。