平成29年5月15日(月) 目次へ 前回に戻る
本日は沖縄返還45周年。沖縄にともだちはいないので、特にだからどうこうということもありません。
月曜日はイヤさー。そこそこ疲れたのに体重は一気に増。
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さてさて。
今有人使人為之牧其牛羊、将責之以其牛羊之肥。則因其肥瘠而制其利害、使夫牧者趨其所利而従之、則可以不労而坐得其所欲。
今、人有りて、人をしてこれが為にその牛羊を牧せしめんとせば、まさにこれに責むるにその牛羊の肥を以てせん。すなわちその肥瘠に因りてその利害を制すれば、夫(か)の牧者をしてその利とするところに趨りてこれに従わしめ、すなわち以て労せずして坐してその欲するところを得ん。
ここにある人が、自分ために、別の人にウシやヒツジの世話をさせようとしたならば、まずはウシやヒツジをどれぐらい肥え太らせてることができたどうか、によって評価することにするであろう。ウシやヒツジが太ったか瘠せてしまったかでプラスマイナスを測ることにすれば、その牛飼い人にプラスになる方に目標を定めて向かわせることができ、こちらは特段の労力を要せずに、利益を上げることができるだろう。
ところが、
求之以牛羊之肥瘠、而乃使尽力於樵蘇之事、以其薪之多少、而制其賞罰之軽重、則夫牧人将為牧耶、将為樵耶。爲樵失牛羊之肥、而為牧則無以得賞。
これに求むるに牛羊の肥瘠を以てしながら、すなわち樵蘇の事に尽力せしめ、その薪の多少を以て、その賞罰の軽重を制すれば、すなわち夫の牧人まさに牧を為さんや、まさに樵を為さんや。樵を為せば牛羊の肥を失うも、牧を為せば以て賞を得る無し。
ウシやヒツジが肥るか瘠せるかを問題にしながら、キコリの仕事に力を尽くすように指示、どれだけの薪木を得ることができたかで、賞めたり叱ったりの評価の基準にするならば、この牛飼いは、牧畜をすればいいのか、キコリをすればいいのか。キコリの仕事をすればウシやヒツジは肥らないだろうけど、牛飼いをすれば賞められることはないのである。
「わーい、そんなの明白でちゅ」
其人挙皆為樵、而無事於牧。
その人、挙げてみな樵を為し、牧において事無からん。
そのひとは、全力を挙げてキコリの仕事をして、牛飼いの仕事なんかするはずないであろう。
そういうわけで、
吾之所欲者牧也、反樵之為得。此無足怪也。
吾の欲するところのものは牧なるに、反って樵のこれ得るを為す。これ、怪しむに足る無きなり。
こちらは牛飼いの仕事をしてほしかったのに、なぜだかキコリの仕事をしてもらうことになってしまった。それもおかしなことではないわけである(こちらが方法を誤ったのだから)。
今、国家のお偉方はどんな人材を求めているのだろうか。
皇帝は試験を行って、飾りのついた文章が巧みで、荘重な儀礼に長けた者を採用しようとするのだ。実際の行政実務や軍事での活躍に重きを置いているわけではない。
だから、士大夫たちは、
曳裾束帯、俯仰周旋而皆有意於天子之爵禄。
裾を曳き帯を束ね、俯仰・周旋してみな天子の爵禄に意有り。
長い服のすそを曳き、立派な帯そ締めて、仰向いたり俯いたり、ぐるぐるまわったりしながら、みんな皇帝から地位と給与をもらおうとしている。
天子之所以求之者、豈在是也。
天子の求める所以のもの、あに是に在らんや。
皇帝は、本当にそんなことが得意な人を求めているのだろうか。
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宋・蘇子由「民政策」より(「唐宋八大家文」巻二十六所収)。
いまや天下のひとをして何を求めさせようとしているのか。少し前はグローバルなカネだったのかと思ったが、最近はライフとなんやらのバランスを自覚した意識の高さを求めているらしいんです。おいらは
「キコリも牛飼いもするのやめまちたー」
のスタイルですから、あんまり時代の変化に関係ありませんけど。ウシやヒツジのように肥らされるのもツラいぞ。