平成29年3月20日(月)  目次へ  前回に戻る

カメにまたがって海に浮かび、どこかに行ってしまおうか。

今日は空が花粉でもやもやしていて、本格的に春になったのだなあ、と思いましたが、明日からまた寒くなるんだそうですよ。

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漢の逢萌(ほう・ぼう)、字は子慶、北海・都昌のひとである。前漢の末に長安に行きて学び、特に「春秋」の経典に詳しかった。

「春秋」は春秋時代の諸国の動向を記録した歴史の書、ということになっておりますが、漢代の「春秋」学は歴史学ではなくて、「春秋時代の天変地異が人間界のどのような事件の予兆であったのか」を研究する、「予言の学」です。そういうのを深く研究したのであった。

時王莽殺其子宇。

時に王莽その子の宇を殺す。

そのころ、権力を握った王莽は簒奪を企図し、これを危惧して反対に回った息子の王宇を謀殺してしまった。

この事件を聞いた逢萌は、その友人に言いて曰く、

三綱絶矣。不去禍将及人。

三綱絶えたり。去らざれば禍まさに人に及ばんとす。

「世界を保つ三つの綱が切れたのだ。もう朝廷から逃げ出さないとわれらにもわざわいが及びはじめるぞ」

「三綱」とは、父・子、君・臣、夫・婦の三つの封建社会を支える重要な関係であります。しかるに廟堂の主というべき王莽が、この父・子の綱を切った。あと二つの綱も危うい。

(次に王莽は、君・臣の綱を簒奪によって切ろうとしている・・・)

そういう変動の時期が来ることを予言しまして、

即解冠挂東都城門、将家属浮海客於遼東。

即ち冠を解き、東都の城門に挂(か)けて、家属を将(ひき)いて海に浮かび、遼東に客す。

ただちに冠を脱ぎ、これを洛陽の城門に掛けると、一門を率いて東海に行き、遼東に移住にした。

さて、逢萌が遼東に隠れ棲んだあと、王莽は「漢」の帝位を簒奪して、「新」を建国(西紀9年)した。

萌素明陰陽、知莽将敗、乃首戴瓦盎、哭於市曰、新乎新乎。因遂潜蔵。

萌もと陰陽に明らかなれば、莽の敗れんとするを知り、すなわち首に瓦盎(がおう)を戴きて、市に哭して曰く、「新か、新か」と。因りてついに潜蔵せり。

逢萌はもともと陰陽の仕組みから未来を予言する学問を研究していた人であったから、王莽がいずれ破滅することを予知し、(王莽の建国を聞くと)市場に出かけて、土で作った壺を頭に載せて、

「新しいというのか、新しいというのか(いや、すぐに古びて滅ぶだろう)」

と言って声を挙げて泣いた。

それ以降、ひとびとの前に姿を見せることは無かった。

わざわざ土の壺を頭にかぶったのは、自分が正常なニンゲンではない、ということを表現しているのである。

地皇四年(西紀23)王莽が滅び、後漢の世になって、光武帝があまねく隠れた賢者を探してお召しになったときも、出仕しようとしなかったのであった。

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「蒙求」巻中「逢萌挂冠」「後漢書」より)の故事にございます。イギリスの王さまが詩人を表彰するのに賜わるのは「桂冠」。こちらは「挂冠」なので間違えませんように。官位を象徴する冠を脱いで掛けていく、というのは、社会から隠退することを表わします。

さて、春先でおいらもムズムズしてきましたから、冠を脱いで出かけるかな。これは会社の門に掛けておきまして、代わりにこの茶碗をかぶって、と。

うっしっし。それではみなさん、さようならーーーー!

 

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