平成29年1月20日(金)  目次へ  前回に戻る

アンコウくんを士分に取り立てるという大英断のぶた殿さま。歴史上、深海魚をここまで取り立てたひとはいない。

せっかく週末だが、すごく寒いです。しかもまた来週が来る。

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嗚呼!

盛衰之理、雖曰天命、豈非人事哉。

盛衰の理、天命なりと曰うといえども、あに人事にあらざらんや。

国が栄え衰える仕組みは「天の定めだ」というけれども、結局は人間の行為の結果なのではなかろうか。

五代・後唐の天下を得る所以と失った所以を考えればそのことがわかるであろう。

後唐を建てた荘宗・李存勖はそのおやじの晋王・李克用から、臨終のときに、三本の矢を手渡された。

・・・一本づつなら折れるけど、三本合わせると折れない、というやつでしょ。

と思ったが、違いました。

李克用は三本の矢を存勖に手渡して、言ったのである。

梁吾仇也。燕王吾所立、契丹与吾約為兄弟。而皆背晋以帰梁。此三者吾遺恨也。与爾三矢、爾其無忘乃父之志。

梁は吾が仇なり。燕王は吾が立つるところ、契丹は吾と約して兄弟たり。しかるにみな晋に背きて以て梁に帰す。この三者は吾が遺恨なり。なんじに三矢を与う、なんじそれ乃父(だいふ)の志を忘るるなかれ。

「(唐を滅ぼした)梁は、(唐を奉じた)我が晋国のカタキである。燕王・劉守光は我が国が支援して立たせてやった王である。契丹族とはわしは誓約して義兄弟となったはずである。ところが燕と契丹はどちらも我々を裏切って、梁に付きおったのだ。この梁・燕・契丹に、わしは怨みを持っている。そこでおまえに三本の矢を与える。おまえはおやじの思いを忘れるではないぞ。」

三本の矢で、三つの敵に怨みを晴らしてくれい、ということでした。

存勖は位を嗣ぐと、この三本の矢を父の位牌とともに廟堂(おたまや)に祀った。そして、戦に出るときにはこの矢を廟堂から取り出して錦の袋に入れ、自らこれを背負って出陣した。かくして、存勖は連戦連勝、燕王を捕縛して連行し、梁帝を斬首してその首を箱に入れ、

入太廟還矢先王、而告以成功、其意気之盛、可謂壮哉。

太廟に入りて先王に矢を還し、しかして成功を以て告ぐ、その意気の盛んなる、壮なりと謂いつべきかな。

おたまやに入って父王に矢を返して、それから戦いの成功を報告したのである。そのときの意気の盛んさは、大したものだったといってよろしい。

ところがこうやって国家の仇を討ち、天下(華北)を統一してからは、どうなったか。

天下を得た李存勖、すなわち後唐の荘宗は、俳優たちを取り立てて身の回りに置き、彼らの言うことしか聞かなくなった。

やがて、

一夫夜呼、乱者四応、倉皇東出、未及見賊、而士卒離散、君臣相顧、不知所帰。

一夫夜に呼べば、乱者四応して、倉皇として東出し、いまだ賊を見るに及ばずして士卒離散し、君臣あい顧みて帰するところを知らず。

一人の不届きもの(趙破敗という者であった)が夜中に叫ぶと、四方のやつらがこれに応じて叛乱を起こし、その報せに大慌てで東に逃げたが、いまだ敵と遭遇しないうちに、士卒は雲散してしまって、荘宗は近侍の者と顔を見合わせて、どこに行ったらいいかわからない、ということになってしまったのだ。

なぜこんなことになったのか。

豈得之難而失之易歟。抑本其成敗之迹、而皆自於人歟。書曰満招損、謙受益。憂労可以興国、逸予可以亡身、自然之理也。

あにこれを得ること難くしてこれを失うこと易きか。そもそもその成敗の迹を本づけば、みな人によるならんか。書曰く「満つるは損を招き、謙ならば益を受く」と。憂労は以て国を興すべく、逸予は以て身を亡ぼすべきは、自然の理なり。

国を手に入れる方が困難で国をうしなうのは簡単だ、ということがあるのだろうか。そもそも、その成功と失敗をあとを追っていけば、すべて人間の行為のせいなのではなかろうか。

尚書・大禹謨篇「満ちれば損なわれていき、へりくだっていれば利益を得られる」という言葉があるが、心配して苦労すれば国は盛んになり、らくして楽しくやっていれば自分の身さえ滅んでしまう―――これは当然の永遠の理法である。

盛んなときは天下の豪傑たちが集まってきても、彼らも力比べのしようがないほどの強さだったのに、

及其衰也、数十伶人困之。而亡身国滅、為天下笑。

その衰うるに及ぶや、数十の伶人、これを困ぜり。而して身を亡ぼし、国滅び、天下の笑いと為る。

衰え始めたら、数十人の俳優たちのせいで苦しむことになった。そして自分の身を死に至らしめただけでなく、国家を滅ぼしてしまって、天下の笑い者にされてしまったのである。

夫禍患積於忽微、而知勇多困於所溺。豈独伶人也哉。作伶官伝。

それ禍患は忽微に積み、しかして知勇多く溺するところに困しむ。あに独り伶人のみならんや。「伶官伝」を作る。

さて。わざわいは少しづつ積み上がってくるもので、智慧や勇気あるひとはたいていその大好きなところが弱点になるのである。そういうものは(荘宗における)俳優だけではないのだろう。ここに、「俳優たちの伝記」を作る。

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宋の欧陽脩らが編纂した「新五代史」には、ほかの「史」には見られない工夫がありますが、その一つが、俳優たちを優遇しすぎて国を滅ぼした後唐・荘宗を題材にした「伶官(わざおぎを以て国に雇われている者)伝」である。「伶官伝」の本論に入る前に、「序論」として加えられたのが、欧陽脩自らの筆になるという上記の「伶官伝叙論」で、古来名文として名高いのである。(「唐宋八大家文」にも所収)

 

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