平成28年12月22日(木)  目次へ  前回に戻る

.考古遺物を好きなひともいるらしい。

今日は午後から大いに風吹き、糸魚川で大火。おいらの乗る船も欠航したので、まだ陸上で生きています。

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生きていると、どうしても、こだわりの対象となる好きなモノができるものである。その内容は鉄道関係、航空機関係、船舶系、城郭系、貝殻、貨幣・・・など、種種様々である。

物常聚於所好、而常得於有力之彊。有力而不好、好之而無力、雖近且易、有不能致之。

物は常に好むところに聚まって、而して常に力有るの彊に得らる。力有れども好まず、これを好むも力無きは、近くかつ易しといえどもこれを致すあたわず。

モノはいつも好きなひとの集まるものであり、いつも力の有るところに保有されるものである。力があるけど好まない、好きだけど力が無い、この二つの場合は、好きなモノが近くにあり、得やすい環境にあっても、モノが集まり保有される、ということにはならない。

財宝類について考察してみよう。

象犀虎豹、蛮夷山海、殺人之獣。然其歯角皮革、可聚而有也。

象犀虎豹は蛮夷の山海の殺人の獣なり。しかるにその歯角皮革は聚まりて有するべきなり。

ゾウ・サイ・トラ・ヒョウ、これらは蛮族の住む山中や海辺に棲む人を殺すケモノである。しかし、その牙・角・皮革は集めて保有したくなるモノである。

玉出崑崙流沙万里之外、経十余訳、乃至乎中国。

玉は崑崙の流沙万里の外に出で、十余訳を経て、すなわち中国に至る。

宝玉はコンロン山のむこう、砂漠のかなた一万里の遠いところで産出され、一つのコトバから別のコトバへと十数回翻訳されながら、やっとこの世界の真ん中まで運ばれてくるモノである。

珠出南海、常生深淵、採者腰絚而入水、形色非人、往往不出、則下飽鮫魚。

珠は南海に出で、常に深淵に生じて、採る者、絚(こう)を腰にして水に入り、形色人に非ず、往々にして出でずして、すなわち下に鮫魚を飽かしむ。

真珠は南の海で産出される。たいてい深い海底にあり、これを採捕する者は綱を腰に結んで水中に潜る。水圧や寒さで姿かたちは歪み、顔色は蒼黒く、ニンゲンとは違った存在になってしまい、さらに、水中から出てこれない者も多い。それらは、海底でサメや大きな魚の餌食になっているのである。

金鉱於山。鑿深而穴遠、篝火餱粮而後進、其崖崩窟塞、則遂葬於其中者、率常数十百人。

金は山に鉱せらる。鑿つこと深くして穴遠く、火を篝りにして粮を餱(つつ)みてのち進み、その崖崩れ、窟塞がれば、遂にその中に葬らる者、率(おおむ)ね常に数十百人なり。

黄金は山中から掘り出される。土に穴を掘ること深く遠く、篝火を持ち食糧を包んでから進むのだが、穴の左右の崖が崩れ、穴が塞がってしまうと、その奥でたいてい数十人、数百人が葬られてしまうのである。

貴重な品々が

其遠且難、而又多死禍、常如此。

その遠くかつ難き、而してまた死禍多きこと常にかくの如し。

その産出場所が遠く、手に入れるのが困難であること、またそのために死亡する原因が多いことは、このとおりなのだ。

然而金玉珠璣、世常兼聚而有也。凡物好之、而有力、則無不至也。

しかるに金・玉・珠・璣は世の常に兼ねて聚めて有するなり。およそ物これを好み、而して力有らば、すなわち至らざる無し。

それなのに、黄金・宝玉・真珠・円真珠は、この世ではたいてい特定の人のところに大量に集められて保有されているものである。だいたいにおいて、それを好きな人があり、そのひとに力があれば、どこからともなく集まって来るものなのだ。

ところでわたしは、鉄道や航空などには興味はないが、古い考古遺物を集めるのが大好きである。手もとまで持ってこれない場合は拓本で手に入れる力もある。これを集めて「集古録」という冊子を作った。これを後のひとたちのために伝えようと思う。

すると、

或譏予曰、物多則其勢雖聚、聚久而無不散。何必区区於是哉。

或ひと予を譏って曰く、物多ければすなわちその勢、聚まるといえども、聚まること久しくして散ぜざるは無し。何ぞ必ずしもここにおいて区区たるあらんや。

あるひとがわしを謗って言うのだ。

「物が多くあると、(雪玉が転がると雪がそれに付着するように)その勢いとしてどんどん集まってくることであろう。しかし、集まってから時が経つと、散らばっていかないものはない。どうしてそれなのに、コツコツと集めるなんて無意義なことをする必要があるのか?」

そこで

予対曰、足吾所好玩、而老焉可也。象犀金玉之聚、其能果不散乎。予固未能以此而易彼也。

予、対えて曰く、吾が好玩するところに足りて、老ゆれば可なり。象犀金玉の聚まるは、それよく果たして散ぜざらんや。予はもとよりいまだ此れを以て彼に易(か)うるあたわざるなり。

わしは答えて言うた。

「わしが好んで、老いに至るまでもてあそぶのに十分であればいいのじゃ。ゾウの牙・サイの角・キン・タマは集まったら、最終的に散らばらずにすむものではない。ただ、わしは、自分の好きなモノ(考古遺物)を、ゾウ・サイ・キン・タマと取り換えることはできません」

わしのモノは、わしが生きている間は渡せません。

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宋・欧陽脩「集古録目序」(「唐宋八大家文」巻十一所収)

こだわりのモノは人には渡せません。なんでこんなスバラしいモノを奪いに来ないのだろう、いや奪いに来るはずだ、と思うと、ニンゲンに対して警戒的にさえなってくるものでございます。

 

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