.ぶた和尚から「おまえなどあんまりは存在しておらぬでぶ!」と喝破されたら、いいキモチはしませんが、少しは存在しているかと思うとありがたい。
明日から少しづつ昼間が長くなってくるはず。おいらの影も少しづつ伸びるのだろう。
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世人只縁認得我字太真、故多種種嗜好、種種煩悩。
世人、ただ「我」字のはなはだ真なるを認得するに縁り、故に種種の嗜好、種種の煩悩多し。
世間のみなさんは、ただ「我」という一語が真実のものだと思い過ぎているのだ。そのために、いろんな好みやいろんな悩みが多く生じるのである。
なので、「我」なんて真実の存在ではないのだ、と早く認識いたしましょー。
いにしえの人が「我」の意義を次のように言っています。
不復知有我、安知物為貴。
また「我」の有るを知らざれば、いずくんぞ物の貴きを知らんや。
「我」というものが存在している、ということを前提にしないと、モノの必要性が認識できない(から、「我」という概念が存在しているのだ)。
「我」にとって必要であるモノは貴く、そうでないモノは賤しく必要でない、という判断をするための概念道具として「我」があるのだ、というのである。「我」は真実に実在するものではないのだ。
また、
知身不是我、煩悩更何侵。
身のこれ我にあらざるを知れば、煩悩さらに何をか侵さん。
(たとえ「我」があったとしても)身体は「我」ではない。このことがわかれば、悩みに苦しむことは無いであろう。
これは
真破的之言。
真に破的の言なり。
ほんとうに的を射抜いてぶち破る、すばらしいコトバである。
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「菜根譚」後集第55条。「我」は少しはあるかも知れませんが、ものすごくあるものではない、と考えておくといいのだと思います。人格なんて希薄なもんなんです。おいらのことを「肝冷斎はダメなヤツだ」「あいつは立ち直れない」などと批判するひともいますが、おいらなんていないんだよ。あるのは影だけなのだ。