もみじの季節だ、さあ出かけようぜ。
肝冷斎族という悲劇の一族がいて、社会から追われて山中に隠れ棲んでしまった―――その時代から何百年も経ちました。もうそんな一族がいたことさえ忘れられております。
そんなある日、うちの郵便受けに差出人不明の書状が入っていた。その内容、以下のごとし。
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休みになったら湖南・永州に来てくださいよ。
永州の州治(州庁所在地)から七十チャイナ里(約30キロ)、東屯(とうとん)という村から六百歩行ったところに「黄神」さまの祠があります。
祠之上、両山牆立、丹碧之華葉駢植、与山升降。
祠の上、両山牆立し、丹碧の華葉駢植して山と升降す。
祠の上は、両側から山が壁のように迫り、赤や緑の花や葉が互い違いに並んで生え、稜線と一緒に登ったり降ったりしている。
其欠者為崖峭岩窟、水之中、皆小石平布。
その欠者は崖峭岩窟と為り、水の中、みな小石平布せり。
(花や葉の)欠けているところは、絶壁や岩窟になっており、(そこに水流があって)水の底は、小石が平らに広がっているのだった。
さて、黄神さまの祠の裏から、水流をさかのぼり、八十歩あるくと、初潭(第一の淵)に出ます。
この淵は
最奇麗、殆不可状。其略若剖大甕、側立千尺、渓水即焉。
最も奇麗にしてほとんど状すべからず。その略、大甕を剖くがごとく、側立すること千尺、渓水即(きわま)れり。
いちばんに変てこで美しくて、コトバで表現しづらいほどである。だいたいをいえば、大きな甕を二つに割ったみたいな形をしてい(て、そこに水が澱んでい)る。淵の両側は300mもあろうかという断崖になっていて、そこから渓谷の水が流れ落ちてくるのである。
淵の水色は、
黛蓄膏渟、来若白虹、沈沈無声、有魚数百尾、方来会石下。
黛蓄わえられ膏渟(よど)み、来たること白虹のごとく、沈沈として声無く、魚数百尾有りてまさに来たりて石下に会す。
まゆずみが貯えられているような濃緑色で、あぶらのように澱んでいる。落ちてくる水は白い虹のようで、静かに音も無く、底には数百匹の魚がいて、石の下などに群れ集っている。
この「初潭」から南に百歩行きますと、そこに「第二潭」(第二の淵)がございます。
このあたりは岩が切り立ち、速い流れに覆いかぶさるようで、ひとの額やアゴや歯に似ている。
其下大石羅列、可坐飲食。
その下は大石羅列し、坐して飲食すべし。
そこから少し下ると、大きな石が平らに並び、そこで弁当を広げて飲み食いできる。
そこで飲み食いしていると、鳥が見えます。赤いとさかに黒い翼、かささぎのような大きさで、東の方を向いてすらりと立っていた。
われわれが飲み食いし終わるまで、同じ姿勢でじっとしていたのである。
そこから南へ一チャイナ里(400m)降りますと、そのあたりは
地皆一状、樹益壮、石益痩、水鳴皆鏘然。
地はみな一状、樹はますます壮んにして、石はますます痩せ、水の鳴ることみな鏘然(そうぜん)たり。
土地はどこも同じように、木々はますます繁り、岩石はますます切り立って、水の音はどこにいってもざあざあと、とめどない。
そこからさらに南に一チャイナ里も下ると、山はのびやかになり水の流れはゆるやかになって、畑が広がるようになる。
ところで、「黄神さま」とはどのような神さまなのだろうか。
始黄神為人時、居其地。伝者曰、黄神王姓、莽之世也。莽既死、神更号黄氏、逃来、択其深奥者、潜焉。
始め黄神の人たるの時、その地に居れり。伝者曰く、黄神は王姓、莽の世なり。莽既に死して、神は号を黄氏と更え、逃げ来たりてその深奥なるものを択んで潜めり、と。
実は「黄神さま」はもともとニンゲンで、この地を開いたひとなのだという。
老人に言い伝えを聞いたところでは、黄神さまは王という姓で、前漢を簒奪した王莽(在位21〜23)の跡継ぎであった。黄神さまは王莽が滅ぼされたあと、姓を黄氏に変えて長安から逃亡し、この奥深い渓中に隠れ住んだのである、と。
ちなみに「王莽伝」を開くと、王莽は「自分は黄虞氏の子孫である」と言っており、このため自分の娘を「黄皇室主」と呼ばせたそうである。もともと黄と王は音が近い。もしかしたら真実のいくばくかを含んでいるのかも知れぬ。
言い伝えでは、
神既居是、民咸安焉。以爲有道、死乃俎豆之、為立之。
神すでにここに居り、民みな安んず。以て有道なりと為し、死してすなわちこれを俎豆して、為にこれを立つ。
神さまがここに居を定めると、そのまわりに人民たちが安心して住み着いて、徐々に村になった。ひとびとは黄神さまを立派なお方と仰ぎ、亡くなったあともその御霊をお祭りし続けて、この祠を立てたのである。
以前はもっと川上にあったそうなのだが、
後稍徙近乎民。今祠山陰渓水上。
後やや徙りて民に近づけり。今、祠は山陰渓水上にあり。
後代になって少し村に近いところに移転した。そこで現在では(上述のように)山の陰、谷川のめぐる上にあるのだ、ということである。
元和八年五月十六日、帰って来てこの「記」を作った。これから訪れようとする人たちのよすがになるように。
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これはどうみても唐・柳宗元「黄渓記」(「柳宗元文集」巻二十九より(「唐宋八家文」巻八所収)である。
差出人は柳宗元だったんですね。
この地には、平家伝説みたいなゆかしい伝説があるのだ。ちょうど紅葉の季節だし、出かけてみるか・・・と思ったが、なんと! 明日はまだ金曜日だった。まだシゴトに行かねばならないのです。ツラい。出かけることもできません。