この二人のデュエットでも、死者の呻き声よりはまだマシか?
週末になりましたので、わたしどもも地上に出てまいりました。ボコ。ボコ。ボコ。・・・あれ? 見慣れない風景だな。ここは日本ではないのかな。
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野原に石碑が立っておりまして、石碑に文章が刻まれておりますので、これを読んでみます。
・・・「東京誌」という本を読みますと、新羅の真平王(在位579〜632)という方は、たいへん狩猟が好きであったということですが、このことを憂えた金后稷は何度もお諫めになられた。しかるに王はお聞き入れにならなかった。
金后稷は
臨死語其子、曰、我生不能匡君。死瘞路側。
死に臨みてその子に語りて曰く、「我生きて君を匡(ただ)すあたわず。死すれば路側に瘞(うず)めよ」と。
死に際して、その子に遺言した。
「わしは生きている間、我が君を正すことができなかった。死んだあとは道端に埋めてくれ」
その子は遺言を尊重して、王が通られる街道の側に墓を作って、父を葬った。
その後、王さまがいつものとおり狩猟に出かけようとしました。
すると、
墓有声。
墓に声有り。
金后稷の墓から、声が聞こえた。
その声は、
王無去。
王、去(ゆ)く無かれ。
・・・王さま・・・お出かけになられては・・・なりませぬ・・・。
と聴こえたのである。
「うひゃあ。これは不気味である」
王さまはその道を通るのいやがり、
遂不復畋。
ついにまた畋せず。
二度と狩猟に出かけることは無くなった。
のであった。
後の世のひと、これを「墓諫」と呼んだ。
噫。在尸而諫千載唯一史魚而已。
噫(い)。尸にして諫するは千載にただ一の史魚あるのみ。
ああ! 死体になってから諫言した、というのは、(わたしの知るかぎり、東アジアの)数千年の歴史の中に、(ほかには)チャイナの春秋時代の史魚がいるだけだ。
「史魚」というひとのことにつきましては、今日そこまでやると寝る時間がすごい時間になってしまうので、明日のお話といたしたく思います。
しかるに、
如公墓諫比史魚尤烈烈。事渉誕、古今所伝亦不可誣也。
公の墓諫の如きは史魚に比ぶるに尤も烈烈たり。事は誕に渉(わた)るといえども、古今の伝うるところまた誣するべからざるなり。
金后稷公の「墓諫」は、史魚の(ふつうの死体諫めに比べて)ずっと激しいものである。よくよく考えると(墓から声がするなんて)ウソのような話であるが、長い間伝えられてきた話であり、否定しさるのもいかがだろうか。
わたしは今、金公の声が聞こえたという墓地に来てみた。
荒阡一路、尚闕片石、樵牧蹂躙、野焼不禁。良可慨也。
荒阡一路のみ、なお片石を闕き、樵牧蹂躙して、野焼も禁ぜず、まことに慨すべきなり。
荒れ果てた細道が通っているところに、今もまだあちこち欠けた墓石が一部遺っていた。しかしそのあたりは、木こりや牛飼いたちが自由に通っており、百姓たちが野火さえかける始末で、ほんとうに嘆かわしいことである。
玆誌数字、庸備後覧。
ここに数字を誌して、つねに後覧に備う。
ここに何文字かを(石に刻んで)記し、後のひとがいつでも(ここが金后稷の墓地だと)見られるようにしておこうと思う。
崇禎紀元周甲後庚寅冬、府尹宜寧南至熏誌。
崇禎紀元周甲後の庚寅冬、府尹の宜寧の南至熏、誌す。
崇禎の元号の甲子を一周したあとの庚寅の年の冬に、ここ慶州の府尹である宜寧出身の南至熏が、文章を書きました。
「崇禎紀元周甲後」とは何ぞや。
そもそも朝鮮は独自の元号を用いずチャイナの暦を奉じますが、明の崇禎元年は西暦で1628年、十七年(1644)三月には崇禎帝が李自成の叛乱軍に攻められて自裁されましたので、普通はここで崇禎年間は終わりになります。この間に庚寅年はありません。しかし、朝鮮はその後チャイナ本土を継いだはずの清の正朔を奉じず、ずっと明の年号を使っておりましたので、崇禎年間がずっと続いたことになって、庚寅が1650年(清の順治七年)、さらに甲子がもう一周した庚寅年は1710年(清・康熙四十九年)になります。この碑文はこの年(李朝・粛宗三十六年)に書かれたものなんです。この国の歴史では、こんなふうな外交的な硬直性、というべき行動が、その後も何度も顔を出しますね。
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大正八年・朝鮮総督府編「朝鮮金石総覧」下・慶尚北道部より(ただし昭和46年国書刊行会再刊)。スバラしい本ですが、神田古本祭りで衝動的にこの本買ってしまったので、今週は倹約中。