「落ちてきたでワン」「イチョウが散ればもう冬も近いでぶう」「ワンワン」「ぶうぶう」
明日は会社に行かなくてもいい日なので、地上に出てきました。地上は寒いな。
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おっさんが向こうから来た。なんか歌っている。
懐瑾握瑜兮、 瑾を懐き瑜を握するも、
窮不知所示。 示すところを知らざるに窮す。
美しい玉を抱き、貴重な宝石を手にしているが、
見せる相手がいないのは困ったことだ。
突然、
「わん、わん」
「わ、びっくりした」
おっさんは犬に吠えられてびっくりしました。そして、
邑犬之群吠兮、邑犬の群れて吠ゆるは、
吠所怪也。 怪しむところに吠ゆるなり。
非俊疑傑兮 俊を非(そし)り傑を疑うは、
固庸態也。 もとより庸(つね)なる態なり。
村のイヌが群がって吠えるのは、
見たこともない相手だから吠えるのだ。
すぐれたものを非難し傑出したものを疑うのは、
(凡人たちの)いつものすがただ。
と、憂鬱そうにため息をついている―――のは、屈原であった(「楚辞」九章「懐沙」)。もうすぐ欝欝して汨羅の淵に飛び込んで自殺するでしょう。
さて・・・・・・
僕往聞、庸蜀之南、恒雨少日。日出則犬吠。予以爲過言。
僕、往(さき)に聞くに、庸蜀の南はつねに雨ふり日いづるは少なし。日出づればすなわち犬吠ゆ、と。予以て過言なりと為す。
おいらが以前に聞いた話では、庸や蜀の南の方(西南部)はいつも雨が降っていて、晴れる日が少ない。このため、太陽が顔を見せると(見慣れぬモノが出た、と思って)イヌが太陽に向かって吠えるのだ、ということであった。おいらはさすがにそれはウソだろう、そんなことはあるまい、と思っていた。
ところが六七年前においらは南方、福建の方にやって来た。(配流されてきたのだが)
二年目の冬に大いに雪が降り、越中の数州にわたって地面が白く覆われたことがあった。
すると、
数州之犬、皆蒼黄吠噬、狂走者累日至無雪乃已。
数州の犬、みな蒼黄(そうこう)として吠え噬み、狂走すること日を累(かさ)ね、雪無きに至りてすなわち已む。
その数州のイヌどもは、みんな倉皇とあわてふためいて吠え、雪に噛み付き、狂ったように毎日走り回った。雪が融けて消えると、ようやくその騒ぎがおさまったのだ。
然後始信前所聞者。
しかる後、始めて前の聞くところを信ず。
この経験をしてから、ようやく蜀の地ではイヌが太陽に吠える、ということを信じられるようになった。
最近、韓愈のやつが、蜀の地における太陽のようにおかしなこと(弟子たちを集めて教え、仲間にするということ)を始めたらしい。そして、韋中立よ、おまえはおいらに越の地の雪のようなことをさせよう(文章の師匠にしたいというのである)と手紙を送ってきた。
思うに、
不以病乎。非独見病、亦以病吾子。
以て病(なや)まざるか。ひとり病ましめらるるのみにあらず、また以て吾が子を病ましめん。
これは困ったことですよ。おいらが困らせられるだけでなく、あなたにとっても困ることにはなりますまいか。
なにしろおいらは朝廷に罪を得て配流されている身だからなあ。
然雪与日豈有過哉。顧吠者犬耳。
しかるに、雪と日と、あに過ち有らんや。顧みて吠ゆる者は犬のみなり。
けれど、雪と太陽の方には別に過誤は無いのではないか。吠えるやつの方がおかしいのだ。吠えるやつらをよくよく見れば、イヌばかりではないか。
という考えもあるかも知れん。
しかしながら、
度今天下不吠者幾人。而誰敢衒怪於群目、以召鬧取怒乎。
今の天下を度(はか)るに、吠えざる者幾人ぞや。しかして誰かあえて群目に怪を衒いて以て鬧を召し怒りを取らんか。
ゲンダイの社会を観測してみると、吠えないやつ(すなわちニンゲンといえるもの)がいったい何人いるのだろうか。こんな世の中で、あえてやつらの目に見慣れぬモノを見せつけて、騒ぎを起こし怒りを招く必要があるのだろうか。
と思うので、おいらはもうしばらくおとなしくしています。(以下略)
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唐・柳宗元「答韋中立、論師道書」(韋中立への答えの手紙、教えることについて論じる)(「唐宋八家文」所収)より。
吠えるやつらはイヌだけなんだなあ。おいらたちも地下に潜っていて太陽を観たりしたことがないので、誰かから優しいコトバを掛けられたりしても、「なんだこれ、見たことない態度だぞワン」と言って、吠えたり噛み付いたりするんだと思います。気をつけてね。