廣島でまた肥った。減量とは見果てぬ夢かまぼろしぞ。
明日は月曜日ですよ。一族の中から誰が会社に行くのかな? 肝冷斎一族はもうほとんど絶滅状態であるが。
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ところで、文化四年九月、とある一族がご先祖さまの眠るお寺で会合いたしました。お寺には美しい牡丹の画が飾られてあった。画いたひとの名前を見るに「玉蘊」とあり。
絶塵風骨是仙姫、 絶塵の風骨、これ仙姫、
却画名花濃艶姿。 却って画(えが)く、名花の濃艶の姿を。
ゴミくずの世界から離れた姿を持つのは仙女さまであろうけど、
そのひとがかえって名高い花のねっとりとあでやかな様子を絵に描くのだなあ。
応知今夜空門会、 応(まさ)に知るべし、今夜空門の会に
欲向香龕供一枝。 香龕(こうがん)に向かいて一枝を供えんと欲す。
ぼくらは知るだろう、今宵、仏寺で法事があるのだが、
そこで(そのひとが)線香の香る仏壇に向かって、(この絵という)花の一枝を捧げようとするのを。
お。なんだ、この思わせぶりな詩は。
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これは、山陽外史・頼襄の「龍山会、題玉蘊女史画牡丹」(龍山の会に、玉蘊(ぎょくうん)女史の牡丹を画けるに題す)七絶である(「頼山陽詩集」巻四)。
「龍山」は、頼家発祥の地である備後・竹原の照蓮寺というお寺で、このとき、廣島藩儒となっていた長男・頼春水、三男・杏坪は医師として家を継いでいた次男・春風のもとに集まって、菩提寺の照蓮寺にて法事を行った。春水や杏坪は跡取り(となるはずの)息子を連れてきており、春水の長子・山陽もその中におりました。
このとき、尾道の豪商・平田家の娘・お豊(玉蘊女史と号す)も竹原に来ておって、彼女が牡丹の画を描いて、頼家に贈ってくれたので、山陽がそのことを詩に詠んだのですな。
頼山陽はモテるので、二人の間には恋情が芽生えたと伝えられる。
山陽はうつ病になって廃嫡され、安芸のおやじのところから出されて備後の菅茶山のもとで学んだあと、京都に出ます。玉蘊女史は京都まで山陽を追いかけて、一緒に暮らそうとし、断られて帰った・・・というお話が続くのでございます。
本日竹原に行ってきましたので、忘れるといけないのでここに書いておきますよ。何で廣島まで行ったのか?は、弾圧のネタになるといけないので、ナイショである。