凶暴なるゾウにブタもサルも踏み潰されていく・・・。
平日になると、ゾウのように強大な社会の圧力がかかってまいります。今日は月曜でイヤでしたが、明日からはもっとツラい日々になるのだなあ。苦しいなあ。
・・・・・・・・・・・・・
さて、チャイナでは乾隆五十四年(西暦で1789年)に当たる年、春正月のこと。
西山党の北平王・阮文恵(グェン・ヴァンフエ)は黎朝大越国の残党を追ってチャイナとベトナムの国境に近い上福に陣した。黎朝側の主力はすでに清軍であったが、阮文恵はまず、
毎遇清兵戦輒敗、清兵易之。
清兵と遇うごとに戦えばすなわち敗れ、清兵これを易(やす)しとす。
清軍と遭遇するたびに戦闘ではわざと敗北したので、清軍は、西山党軍をくみやすし、と侮った。
これが策略だったんです。
正月五日、
天未明、恵親自督戦、以雄象百余居前、勁兵随之。
天いまだ明けざるに、恵、親しく自ら督戦し、雄象百余を以て前に居らしめ、勁兵これに随わしむ。
夜明け前、文恵自らが親しく戦況を見守る中、オスの象百余頭を先頭に、精鋭の兵士らをその後ろに随わせて突撃を開始した。
しばらくは互角に戦っているかに見えたが、やがて夜が明けると、清軍ははじめて目の前にいるのが通常の軍ではなく、巨大なドウブツ(象のことです)が先頭にいることに気が付いたのである。
清騎兵所乗馬見象、皆嘶鳴反走、歩兵為象所蹂。
清騎兵の乗ずるところの馬、象を見て、みな嘶き鳴きて反走し、歩兵は象の蹂むところと為る。
清軍の騎兵隊の馬は、象を見て驚き、みな怯えていななき、身をひるがえして逃げ出した。その後ろの歩兵隊は混乱しているうちに象に踏み潰された。
それでも後方の柵まで引き下がり、小銃隊が激しい弾幕を浴びせた。
だが、
賊駆象冒弾、抜塁而入。
賊、象を駆りて弾を冒し、塁を抜きて入る。
西山党軍は象を駆けさせて弾幕をものともせず、防塁を破って柵の中に突入した。
「うわーん」「どひゃあ」「ひっひっひっひ」
と大混乱の中で、清軍の許提督、張先鋒らが相次いで戦死し、部隊は潰滅。
清の総将軍・孫士毅は後詰の部隊を率いて戦場に近づいたが、前線が突破されたとの報を得て、
乃下令撤兵北渡。
すなわち下令して撤兵し北渡せしむ。
ただちに、河の北側に撤退するよう命令を下した。
その際、
過浮橋、橋断、死者数百人。
浮橋を過ぎるに、橋断たれ、死者数百人なり。
船橋を通り過ぎようとしたが、あまりに多くの兵士が橋にかかったので、橋は壊れ、数百人が河に落ちて死んだ。
また、清軍に附きしたがっていた文官の岑知府は武挙場の地で包囲されて孤立し、ついに自ら首をくくって自死した。
かくして清軍はベトナムの地から撤退し、この後を追って黎朝・昭統帝も清に亡命し、ここに黎朝は滅亡し、また清軍もベトナムの版図から追逐されたのである―――。
・・・・・・・・・・・・・・
と、「大越史記全書」の一番最後(続篇巻五)に書いてあった。戦争はコワいですねー。
なおこのころ既に南部には阮福映がフランスの支援を受けて勢力を伸長させており、西山党阮氏はこの阮朝に破れ、阮朝はやがてフランスに領土を割譲していく。そういえば、この年7月に、遠くパリでバスチーユ蜂起が起こる年でございます。
―――ということで、二十数年追いかけていた「大越史記全書」(2015.12西南師範大学出版社)をついに入手しました。13世紀〜18世紀のベトナム正史である「大越史記全書」は黎朝や西山党時代に印刷されたものがあり、また我が国明治18年(1885)に東京埴山堂から活字本が出版されておりますが、この明治本、平成のはじめごろに神田の古本屋で30万円の値段がついていました。さすがに手が出なかったが、最近同じ版本が五万円ぐらいになり、新刊が出たことに気づいたので、取り寄せたんです。うっしっし。電子データでも読めるみたいよ。