ついに出家したクマとブタ。真理のためには食欲も否定できるのだろうか。
今日は雨に濡れて寒かったし、腹も減ってきた。
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むかしむかし、あるところに、
仏寺中有金釜、以烹五味、供給道人。
仏寺中に金釜有りて、以て五味を烹し、道人に供給す。
お寺がありまして、そこには黄金の釜があった。この釜で美味い食い物を作って、修行者たちに供給していたのであった。
とある俗人、お寺にお参りしたときに、この黄金の釜を見て、
欲盗、取之無所。
盗まんと欲するに、これを取るに所無し。
「あれを盗んでやろう」と思ったが、なかなか盗み出す機会がなかった。
そこで、
詐作沙門、被服入衆僧中。
いつわりて沙門と作(な)り、服を被て衆僧中に入れり。
ニセ修行者となって、修行者用の服を着て、たくさんの僧侶たちの間に紛れ込んだ。
ところがニセ修行者として暮らしているうちに、
聞上座論経、説諸罪福、生死証要、影響之報不可得離之証。
上座の経を論ずるを聞くに、諸(もろも)ろの罪福、生死の証要、影響の報の離るるべからざるの証を説く。
長老たちがブッダの教えについて語り合うのを聞いた。あらゆる罪や幸福の関係、生き死に輪廻する仕組みの説明、因と果が、物体とその影、音とその響きのように密接に関わりあっていることについての証明などを聞いたのである。
これらを聴いているうちに、そのひと、ついに
意中開悟、内懐懺悔、撰情専心、則見道迹。
意中悟りを開き、内に懺悔を懐(おも)い、情を撰して専心なれば、すなわち道迹を見たり。
こころの中で悟りを開いて、内面においてこれまでの自分の言動を反省した。その感情を保持して、一心に思っているうちに、どうとう仏の教えを理解したのである。
さて、そうなってみると、
思惟所由、釜是我師。
由るところを思惟するに、釜これ我が師なり。
こうなった原因を考えてみるに、釜が自分をここまで導いてくれたのだ、といわざるを得ない。
そこで、
特先礼釜、繞之三匝。
特に先ず釜に礼し、これを繞ること三匝せり。
特別に、まずは釜を礼拝し、そのまわりをぐるぐると三回回って、弟子礼をとった。
まわりの僧侶たちに
「なにやってるんや、おまえ」
と訊かれて、はじめて自分の来歴を白状(カミングアウト)したのであった。
さてさて。
夫覚悟、各有所因。心専一者、莫不見諦也。
それ、覚悟にはおのおの因るところ有り。心専一なる者は、諦を見ざるなし。
さて。悟りを開くには、それぞれのひとごとにそのきっかけがあるものだ。いずれにせよ心を統一していれば、真理を発見することができるだろう。
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「雑譬喩経」巻下より。腹減るとお釜も拝みたくなりますね。