肝冷斎はかわいそうなコでちゅね。コドモなのにシゴトさせられ、「クビでは済まない」ような失敗をさせられるなんて。
今日も職業上の大失敗。取り返すことなどできそうにないので、しばらく身を隠すしかないであろう。おいらみたいなコドモにシゴトさせてはいけないのに、どうしてそれがわからないのか。
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久坂玄瑞のコトバに、
大丈夫当棄斥于於齷齪斗筲之徒、而不当棄斥於磊落奇偉之人。
大丈夫まさに齷齪斗筲(あくせく・とそう)の徒に棄斥せらるべく、而して磊落奇偉の人に棄斥せらるべからず。
立派な人は、歯の隙間のように狭いことに一生懸命になるちっぽけなやつらには排斥されるのがいいのである。しかし、細かいことを気にしないでいる変なひとには排斥されてはならない。
という。
このわたくしが思うにも、
畢竟スルニ齷齪斗筲之徒ヲ指シテ疎狂ト為シ痴漢ト為ス所ノ者ニ非ズンバ、大丈夫タリ難シ。
結論的に言って、ちっぽけなやつらのことを愚かな狂人である、あほうである、というようなひとでなければ、立派な人とは言い難いであろう。
玄瑞ノ是ノ言、善矣。
玄瑞のこのコトバは、よろしい。
「おまえは誰か?」
とおっしゃるか?
がっはっは。
吾は植子(しょくし。植木枝盛先生の自称)なり。
吾有城名貧、城中有一物曰清。
吾に城有り貧と名づく、城中一物有り清と曰う。
わしには城がある。「貧乏城」という城が。その城には「清」という物が鎮座している。「清貧」城なのだ。
この城は
誠不如万里長城、秋月何能競皎潔。
誠に万里の長城に如かざるも、秋月何ぞよく皎潔を競わんや。
まったく万里の長城のような立派な城ではありません。しかし、秋の月さえ、白く清潔であること、我が城に敵わないのだ。
嗚呼。植木先生ハ「フヱコンデチー」(物ヲ産出スルノ力)ヲ有スル者也。其レ豈ニ言フベカラザルノ功徳荘厳ヲ成就セザラン乎哉。
ああ。植木先生(←自称)は「フエコンデチー」(物を産み出す能力)を有する者である。(阿弥陀仏が極楽浄土を作ったように)コトバにできないような功徳荘厳を成就しない、ということがあろうか(必ず成就するであろう)。
(附言)「フヱコンデチー」はおそらくフランス語だと思います。
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植木枝盛「無天雑録」四巻上・明治十六年より。
植子さまのような立派な人でなければシゴトはさせられませんよ。おいらみたいなコドモは適当におやつをあげて一日中遊ばせておいてほちいなあ。