←ジゴク絵図@ 暑くても、ジゴクの鍋で煮られるよりは涼しい。といってガマンするしかないのか。
一日終わって「ああ、やっと終わったなあ」と思ったが、まだ月曜日だった。
昨日は日曜日だったのでなんだか世の中が明るく見えたが、今日はもうどんよりとしていた。夕立が来て暑さと土埃を洗って行ったが、心は暗く澱んでいるのである。
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孔先生がおっしゃった。
無禮之禮、敬也。
礼無きの礼は、敬なり。
礼儀作法に則とらなくても実質的には礼に則っている、といえるのは、心からから敬(つつし)むときである。
「へー、そうなんだ」
無服之喪、哀也。
服無きの喪は、哀なり、
表面上は喪に服していなくても実質的には服喪している、いえるのは、心から哀(かな)しむときである。
「へー」
無声之楽、歓也。
声無きの楽は、歓なり。
音は何も出さなくても実質的には音楽を奏でている、といえるのは、心から歓(よろこ)んでいるときである。
「うんうん。っこれはわかりまちゅ。内面のキモチというのが大事なんですね」
そのとおり。
不言而信、不動而威、不施而仁、志。
言わずして信あり、動かずして威あり、施さずして仁あるは、志なり。
コトバにしなくても信じあえる。
何もしなくても重みがある。
何もくれなくても思いやりが伝わってくる。・・・これらは、内面にキモチがあるからである。
「うーん、でも、おいらなんかにも、コトバにしなくても信じあえたり、何にもしなくても重みを感じたり、何もくれなくても思いやりを感じたり、できるかなあ」
もちろんじゃ。
夫鐘之音、怒而撃之則武、憂而撃之則悲。其志変者、声亦随之。
かの鐘の音は、怒りてこれを撃てばすなわち武、憂いてこれを撃てばすなわち悲なり。その志の変ずる者は、声もまたこれに随う。
あの鐘の音をよくよく聞いてごらん。鐘を打つひとが何かに頭に来ていると、猛々しい音になる。心配ごとがあるひとが打つと、悲しげになる。内面のキモチが変化すると、音もそれに従って変わるのじゃ。
故志誠感之。通於金石、而況人乎。
故に志誠にしてこれを感ぜしむれば、金石にも通ずるなり。いわんや人をや。
このように、内面のキモチが誠実で、そのキモチが乗り移るならば、金属(でできた鐘)にもキモチが伝わるのである。どうしてひとに伝わらないことがあろうか。
「うーん、うーん・・・」
どうしたのじゃ? なにか訊きたいことがあったら言いなさい。
「い、いや、大丈夫でっちゅ。よ、よくわかりまちた」
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なんか変な気もするのですが、どう反論すればよかったのでしょうか。孔子さまの云うことだから、変な疑問なんか持たずに「わっかりましたあ!」と納得しておけばよいのカモ知れませんが。「孔子家語」巻四より。