平成28年7月4日(月)  目次へ  前回に戻る

ジゴク絵図@ 暑くても、ジゴクの鍋で煮られるよりは涼しい。といってガマンするしかないのか。

一日終わって「ああ、やっと終わったなあ」と思ったが、まだ月曜日だった。

昨日は日曜日だったのでなんだか世の中が明るく見えたが、今日はもうどんよりとしていた。夕立が来て暑さと土埃を洗って行ったが、心は暗く澱んでいるのである。

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孔先生がおっしゃった。

無禮之禮、敬也。

礼無きの礼は、敬なり。

礼儀作法に則とらなくても実質的には礼に則っている、といえるのは、心からから敬(つつし)むときである。

「へー、そうなんだ」

無服之喪、哀也。

服無きの喪は、哀なり、

表面上は喪に服していなくても実質的には服喪している、いえるのは、心から哀(かな)しむときである。

「へー」

無声之楽、歓也。

声無きの楽は、歓なり。

音は何も出さなくても実質的には音楽を奏でている、といえるのは、心から歓(よろこ)んでいるときである。

「うんうん。っこれはわかりまちゅ。内面のキモチというのが大事なんですね」

そのとおり。

不言而信、不動而威、不施而仁、志。

言わずして信あり、動かずして威あり、施さずして仁あるは、志なり。

コトバにしなくても信じあえる。

何もしなくても重みがある。

何もくれなくても思いやりが伝わってくる。・・・これらは、内面にキモチがあるからである。

「うーん、でも、おいらなんかにも、コトバにしなくても信じあえたり、何にもしなくても重みを感じたり、何もくれなくても思いやりを感じたり、できるかなあ」

もちろんじゃ。

夫鐘之音、怒而撃之則武、憂而撃之則悲。其志変者、声亦随之。

かの鐘の音は、怒りてこれを撃てばすなわち武、憂いてこれを撃てばすなわち悲なり。その志の変ずる者は、声もまたこれに随う。

あの鐘の音をよくよく聞いてごらん。鐘を打つひとが何かに頭に来ていると、猛々しい音になる。心配ごとがあるひとが打つと、悲しげになる。内面のキモチが変化すると、音もそれに従って変わるのじゃ。

故志誠感之。通於金石、而況人乎。

故に志誠にしてこれを感ぜしむれば、金石にも通ずるなり。いわんや人をや。

このように、内面のキモチが誠実で、そのキモチが乗り移るならば、金属(でできた鐘)にもキモチが伝わるのである。どうしてひとに伝わらないことがあろうか。

「うーん、うーん・・・」

どうしたのじゃ? なにか訊きたいことがあったら言いなさい。

「い、いや、大丈夫でっちゅ。よ、よくわかりまちた」

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なんか変な気もするのですが、どう反論すればよかったのでしょうか。孔子さまの云うことだから、変な疑問なんか持たずに「わっかりましたあ!」と納得しておけばよいのカモ知れませんが。「孔子家語」巻四より。

 

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