欧州では聖ヨハネの火祭りの夜である。
今日の飲み会はかなりエラいひととご一緒して、いろいろお話を伺う。それはよかったのだが、途中でやはり眠ってしまう大失態。もうダメだ。夏至のあと、太陽が徐々に活動を弱めるように、わしも今日から(さらに)弱まっていくであろう。
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明の時代のことでございます。
友人と一献を傾けているとその友人がしみじみと言い出した。
人生譬如一場筵席。
人生は譬うるに一場の筵席の如きなり。
人生というのは、たとえてみれば、一回の宴会のようなものだなあ。
と。
「どういうことかね?」
と訊いてやると、友人は言う、
飲酒多少不同、同時而散。欲事多少不同、同時而死。
飲酒の多少は同じからざるも、時を同じうして散ず。事を欲することの多少は同じからざるも、時を同じうして死す。
宴会では、酒を飲む量に多い少ないの違いはあっても、終宴になればみんな同時に帰っていくではないか。人生も、何を成し遂げたいという意欲に多い少ないの違いはあっても、さておしまいということになればみんな死んでしまうのだ。
「なるほど。だが、そうではないだろう」
予応曰。
予応じて曰う。
わたしはそれに応じて、やはりしみじみと言った。
独不見有逃席者乎。
ひとり見ずや、席を逃るる者のあるを。
「どうして、宴会の途中で脱け出して帰ってしまうやつがいるのに気付かないのだ?(若くして死んでしまう者もいるではないか)」
と。
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ちょっとしんみりしてしまいましたが、宴席の途中で眠りこけて、最後だけまた起き出すやつがいることも忘れているのではないだろうか。
明・鄭瑄「昨非庵日纂」より。