平成28年6月4日(土)  目次へ  前回に戻る

たくさん食べて強くなりたい・・・。

本日はY家のみなさまとスタミナ太郎で食べ放題90分。苦しい。

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苦しまぎれに今日も古典を読んでみます。

紀元前594年(魯の宣公十五年)、

冬、蝝生。

冬、蝝(えん)が生じた。

「蝝」(えん)はイナゴの子で、まだ羽の生えないのをいう、という。

冬に、イナゴの子が発生した。

さて、この事件にはいかなる意味があったのか?

「左氏伝」に曰く

蝝生、饑。幸之也。

蝝生じ、饑(うえ)たり。これを幸いとするなり。

イナゴの子が発生し、飢饉になったのである。しかし、これは幸いなことであった。

何が「幸い」なのか、説明はありません。

「公羊伝」に曰く、

未有言蝝生者、此其言蝝生、何。蝝生不書。此何以書。幸之也。

いまだ蝝の生ずるを言うものあらざるに、ここにそれ蝝の生ずるを言うは、何ぞや。蝝の生ずるは書せざるなり。これ何を以て書するや。これを幸いとすればなり。

「イナゴの子が発生した」というのはこの記事までに記述されたことがないのに、ここに「イナゴの子が発生した」と記述しているのはなぜか。「イナゴの子が発生した」という事件は記述しないのが通例なのである。なのにどうして記述したのか。これは幸いなことであったからである。

こちらもまた「幸い」だとしています。

しかしその上で、なぜ「幸い」だとするのか解説してくれている。

幸之者何。猶曰受之云爾。受之云爾者、何。上変古易常、応是而有天災。其諸則宜於此焉変矣。

これを幸いとするものは何ぞや。なおし、これを受くと云うのみといえるがごとし。これを受くと云うのみなるものは何ぞや。上、古を変じ常を易(か)うれば、これに応じて天災有り。それ、これをすなわちここにおいて宜しく変ずべきなりとすなり。

これは幸いなことであった、というのはどういうことか。これをお受けする、というのと同じようなことなのである。これをお受けする、というのと同じようなことであるというのはどういうことか。天上の方でこれまでのことを変化させ、常態を転換するということがあれば、それに対応して天からの大きな災害が起こるのだ。(これをお受けする、というのは、その変化や転換を察知して、地上の君主や人民が)これを機会に行いを改めるようにするとよい、ということなのである。

「イナゴの発生」は大きな災害の前に天が下した予兆に過ぎないので、これをきっかけにニンゲンが行いを改める機会にできるから「幸い」である、というのである。(この文章訓読難しくて自信がありませんが、意味的にはこれで問題ないと思う)

「穀梁伝」に曰く、

蝝非災也、其曰蝝非税畝之災也。

蝝は災にあらざるなり、とは、それ、蝝は畝に税するの災にはあらざるなりと曰うなり。

「春秋」には、この直前の「秋」に、

・・・魯の国では、それまでの「助法」(耕地のうちの十分の一を公用耕地とし、十分の九の私用の耕地をそれぞれに耕す九戸の農家が労働力を提供して公用耕地を耕し、その収穫を以て公用に充てる、という税法。十分の一税法。古代の理想の税法とされるが本当に適用されていたのかどうかは不明)を止めて、土地に課税する「税畝法」を採用した。・・・

という記述があります。

「イナゴの子(の発生は本当は災害なのだが)」について、「災害」という記述が無いのは、「イナゴの子(の発生)は(直前に行われた)税畝法の執行に対応する天災ではなかった」ということが言いたいのである。

税畝法の施行は古来の伝統を変えることなので、本来ならこれに対して「天災」が下されてもおかしくないのですが、今回の「イナゴの子の発生」ごときはその重大な人為的ミスに対する「天災」ではないのだ、というのである。

―――なるほど、どの「伝」もすばらしいことが書いてある?ように読めます。・・・いや、知識人であればそう読みとらなければならないのだ! とすれば、みなさんはどの「伝」が正しいと思いますか?

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「春秋」宣公十五年冬より。いつもながら「公羊伝」の「書法」はくどくてオモシロいですね。

おいらは、後世の学者たち(例えば宋の孫復)がいうように、この年の秋には(税畝法の施行のほかに)「イナゴが発生した」という記述があり、冬にはその子が発生した、というのであるから、虫害が深まった、という記述なのであって、左氏伝、公羊伝で災害ではなかった、というのはまったく記述の意味をなさず、穀梁伝は無理やりにすぎる、というのが正しいように思います。むふうん。

・・・と悦に入っていると、

「こいつはいつも役に立たないことばかり考えているのだなあ。休日になるとヒマになって役に立たないこと長々と書き始めるのだ」

「肝冷斎の人生はムダね」

「こんなやつと同じ世界に生きているのは迷惑ですな」

などと言われているのが聞こえてきます。反論が聞こえると一層やっつけられるので、聞こえないようにそっと、「かくのごとく役に立たないことを考えることこそ、本当に生きているということではないのか」と反論しておきます。つぶやくがごとく。

生きるためには、生きるための知恵があればそれで充分なのである。(色川武大「ひとり博打」)

今日はおれは食いすぎているが、北海道では一週間、食べるものも無く生きていたコドモもいたのである。

 

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