平成28年5月13日(金)  目次へ  前回に戻る

南無地蔵大菩薩。なんといたしましょうか。

ひどい人生になってしまった。職業のせいで。

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そういう状態なので、漢字ばかりの本読んでるゆとりがないんです。

じじいの話でも聞くのが限界。

―――いつの事でありましたかなあ・・・。

ある家で宴会があったのだそうですが、その会も終わりまして、客人みな引き上げたが、

其の中に一人、あまりに酒食に飽満してそのくるしさにたへがたきままに、うめきうめき果然の腹を抱いて帰りし。

その中のおひとりは、あまりに飲み食いしたので腹がいっぱいで、その苦しさに耐えがたいままで、うめきながらそのようになってしまった腹を抱えて帰ったのであった。

途中で

乞児の飢えて食をもとむるにあう。

乞食が

「おなか減っておりまちゅ。何か食い物を恵んでくだちゃい・・・」

と求めるのに出会った。

そこで、そのひとは言ったそうである。

あらうら山し、彼が身にならばなにかあるべき。

「ああうらやましい。こいつのような(飢えた)体になれれば何の問題もないのになあ」

と。

わは?

わははは?

わははははははは。

と笑うしかありません。

いとをかしく侍る。

たいへんおかしいことでござる。

ほんとにオモシロいですなあ。

さて、ここから説教が始まります。

今儒者世事にあき名利をいとひて、反て頭陀(ずだ)の教へをしたはしく思ふは、此の人の酒食に飽きて乞児をうらやむに似たり。わが名教中に楽地ある事をしらざればなり。

ゲンダイの儒学者が現世を指導することがイヤになり、名誉や利益も棄てて、儒者なのに反って出世間の仏道の教えを好きになるのは、この、飲み食いしすぎて乞食を羨ましがったひとに似ている。われらの名義を大切にする教え、すなわち儒教の中にこそ、本当の楽しみの境遇があることを知らないのだ。

「頭陀」(ずだ)は、梵語の「ドゥータ」の音訳で、「衣食住の欲望を棄てて修行の道に入ること」で、仏道に入ることをいう。

夫天下に真と妄とあり。天理のより出づるは真也、人欲より出づるは妄なり。・・・・

それ、天下の事項は真(まこと)と妄(みだり)の二種類に分かれるのである。天の理から出るのは真である。人の欲から出るのが妄なのである。うんたらかんたら・・・

以下略。

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本朝・室鳩巣「駿台雑話」第二より。頭陀の世界に行きますわ。

 

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