平成28年5月5日(木)  目次へ  前回に戻る

コドモのころはホントにカッパがいると信じていたなあ。
「いや、気づかないだけでホントにいるでカッパ」

本日はキモチのいい日であった。会社を休むだけでもキモチいいし、天気はいいし・・・。まるでコドモのころに見上げたような、青い空であった。

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コドモのころはよかったですよね。

杜甫の詩「百憂集行」にいう、

憶昔十五心尚孩、 憶う、昔十五にして心なお孩(おさな)く、

健如黄犢去復来。 健なること黄犢(こうとく)の如く、去りてまた来たる。

 思い出しますに、むかし十五歳のころは精神的にはまだまだコドモでありまして、

 黄色い子牛のように元気いっぱいで、あちらに行ったりこちらに行ったり止どまることもなかった。

庭前八月梨棗熟、 庭前に八月、梨・棗熟せば、

一日上樹能千回。 一日に上樹することよく千回。

 庭先には秋八月ともなればナシやナツメの実がなる。

 そうなると、一日の間に、千回のそれらの木に登って実をもいだものだ。

ところが・・・。、

即今倐忽已五十、 即今、倐忽(しゅくこつ)としてすでに五十、

坐臥唯多少行立。 坐臥ただ多く、行立すること少なし。

 今やあっという間に五十の齢を越えましたのじゃ。

 今となっては座ったり横になったりするばかりで、立って歩くことも少なくなってしまった。

もう年ですのじゃ。

肉体が衰えただけでなく、精神も老いたのですのう。

強将笑語供主人、 強いて笑語して主人に供せんとすれども、

悲見生涯百憂集。 悲しいかな、生涯に百憂の集まるを見る。

 お呼ばれに行けば無理にでも、明るくおもしろおかしな話をして、家の主人に楽しんでもらおうと思うのだが、

 どうもそうはいかない。悲しいことに、我が人生には百の憂愁のネタが集まって来そうなのだ。

いや、もうほんとにあきまへん。

若いころはよかったなあ。

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オトナになってキタナいこともたくさん覚えてしまいました。千二百年後の詩人・龔定盦「己亥雑詩」にいう、

少年哀楽過于人、 少年、哀楽人に過ぎ、

歌泣無端字字真。 歌い泣きて端無くも字字真なり。

 幼いころのわたしは、悲しみも喜びも他のひとより激しかった。

 歌ったり、泣いたり、理由はわからないが、一字・一字がすべて真率の想いであったのだ。

その後、

既壮周旋雑痴黠、 既に壮にして周旋し、痴黠(ちかつ)を雑(まじ)うるといえども、

童心来復夢中身。 童心来たり復す、夢中の身に。

 オトナになっていろんなことに対応し、ばかげたこと・ずるがしこいこともしなければならず、

 コドモの心は、夢の中でしかこの身に戻ってきてくれない。

オトナにならなければよかったなあ。

 

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