コドモのころはホントにカッパがいると信じていたなあ。
「いや、気づかないだけでホントにいるでカッパ」
本日はキモチのいい日であった。会社を休むだけでもキモチいいし、天気はいいし・・・。まるでコドモのころに見上げたような、青い空であった。
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コドモのころはよかったですよね。
杜甫の詩「百憂集行」にいう、
憶昔十五心尚孩、 憶う、昔十五にして心なお孩(おさな)く、
健如黄犢去復来。 健なること黄犢(こうとく)の如く、去りてまた来たる。
思い出しますに、むかし十五歳のころは精神的にはまだまだコドモでありまして、
黄色い子牛のように元気いっぱいで、あちらに行ったりこちらに行ったり止どまることもなかった。
庭前八月梨棗熟、 庭前に八月、梨・棗熟せば、
一日上樹能千回。 一日に上樹することよく千回。
庭先には秋八月ともなればナシやナツメの実がなる。
そうなると、一日の間に、千回のそれらの木に登って実をもいだものだ。
ところが・・・。、
即今倐忽已五十、 即今、倐忽(しゅくこつ)としてすでに五十、
坐臥唯多少行立。 坐臥ただ多く、行立すること少なし。
今やあっという間に五十の齢を越えましたのじゃ。
今となっては座ったり横になったりするばかりで、立って歩くことも少なくなってしまった。
もう年ですのじゃ。
肉体が衰えただけでなく、精神も老いたのですのう。
強将笑語供主人、 強いて笑語して主人に供せんとすれども、
悲見生涯百憂集。 悲しいかな、生涯に百憂の集まるを見る。
お呼ばれに行けば無理にでも、明るくおもしろおかしな話をして、家の主人に楽しんでもらおうと思うのだが、
どうもそうはいかない。悲しいことに、我が人生には百の憂愁のネタが集まって来そうなのだ。
いや、もうほんとにあきまへん。
若いころはよかったなあ。
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オトナになってキタナいこともたくさん覚えてしまいました。千二百年後の詩人・龔定盦の「己亥雑詩」にいう、
少年哀楽過于人、 少年、哀楽人に過ぎ、
歌泣無端字字真。 歌い泣きて端無くも字字真なり。
幼いころのわたしは、悲しみも喜びも他のひとより激しかった。
歌ったり、泣いたり、理由はわからないが、一字・一字がすべて真率の想いであったのだ。
その後、
既壮周旋雑痴黠、 既に壮にして周旋し、痴黠(ちかつ)を雑(まじ)うるといえども、
童心来復夢中身。 童心来たり復す、夢中の身に。
オトナになっていろんなことに対応し、ばかげたこと・ずるがしこいこともしなければならず、
コドモの心は、夢の中でしかこの身に戻ってきてくれない。
オトナにならなければよかったなあ。