平成28年4月20日(水)  目次へ  前回に戻る

春も終わりに近づいてきた。だが今週はまだ・・・。

今日もキツかった。なのにまだ水曜日までしか終わってない、とは・・・。

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目的無き我が人生、行き当たりばったり的に、今日は「蒙求」キリ番でも読みます。

後漢の郭林宗は太原・界休のひと。

家世世貧賤、博通墳籍、善談論、美音制。

家世々貧賤なれども、墳籍に博通し、善く談論し、音制に美なり。

代々貧乏で身分も高くなかったが、超古代の三皇(伏羲、黄帝、神農)時代の書籍に博く通じ、談論が上手で、音楽が得意であった。

やがて、

游洛陽、始見河南尹李膺。膺大奇之、遂相友善、名震京師。

洛陽に游び、始めて河南尹・李膺(りよう)に見(あ)う。膺、大いに奇とし、遂に相友として善に、名は京師に震う。

当時の都・洛陽に遊学し、そこで河南府長官の李膺と出会った。李膺は「このような人物は二人といない」と感激し、若い郭林宗と篤く友情を結んだので、その名は都中で大いに喧伝されたのであった。

それから学者・文人、当時の文化的セレブとして活動しました。

後、帰郷するというので、付き合いのあった名士たちは河上の地まで送りに来たが、

車数千両。林宗唯与膺同舟而濟。

車数千両なり。林宗ただ膺と舟を同じうして済(わた)る。

彼らの乗ってきた馬車は数千両にもなったが、郭林宗は(彼らの相手はせず)ただ李膺と二人、舟に同乗して黄河を渡っていった。

「おお」

賓客望之、以爲神仙焉。

賓客これを望み、以て神仙と為せり。

見送りの方々はその姿を望みみて、「神仙ではないか」と言い合った。

のだそうでございます。

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「蒙求」巻上「李郭仙舟」

「だから、なんなのだ?」

「教訓とか、ないのか? 朝礼で使えないぞ」

「ハウツーになってないのかしら? ダメね」

とご批判もありましょう。これが「蒙求」の第百話なんです。

熊本の地震、なかなか収まりませんが、元気出していきましょう。

家は焼けても江戸っ子の意気は消えない 見ておくれ アラマ オヤマ。

たちまち並んだバラックに 夜は寝ながらお月さま 眺めて エーゾ、エーゾ、帝都復興 エーゾ、エーゾ。

騒ぎの最中に産まれた子供 つけた名前が震太郎 アラマ オヤマ。

震地に震作、震子に復子、この子が大きくなりゃ 地震も話しの種 エーゾ、エーゾ、帝都復興 エーゾ、エーゾ。 (「復興節」(添田さつき 大正十二年))

 

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