わたしどもBR(ブタ鉄道)のモットーは「静」(何もしない)でぶー。
おいらも何もしたくない、のに、かなりの量のシゴトが。明日は今日よりさらにきつい。
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ツラいので呻き、吟じる。
静之一字、十二時離不了。一刻纔離便乱了。
「静」の一字は、十二時離れ了せず。一刻わずかに離るればすなわち乱れ了せん。
「静」という一文字は、二十四時間そこから離れることはできない。ひとときでも離れてしまったら、もう(大切なものが)乱れてしまう。
「静」から離れないので乱れずにすんでいる例として、以下の三例が挙げられます。
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門尽日開闔枢常静。
門は尽日開闔(かいこう)すれども枢(とぼそ)は常に静かなり。
門は一日中開いたり閉じたりするけれども、扉を支えて動かない部分である「枢」(とぼそ)はいつも静かである。
A
妍媸尽日往来鏡常静。
妍媸(けんし)は尽日往来するも鏡は常に静かなり。
美しいひと・醜いひとが一日中その前に立って行き来するが、鏡はいつも静かである。
B人尽日応酬心常静。
人、尽日応酬するも心は常に静かなり。
立派なひとは一日中物事に対応していても、心はいつも静かである(はずである)。
これらは、「静か」だからこそ「動くもの」を支配できるのだ。
若逐動而去、応事定不分暁。
もし動を逐いて去れば、事に応ずるに定めて分暁ならざらん。
もしも動くものを追いかけているのでは、事物に対応するときに、きっと明晰にはやれないであろう。
そんなことでは、
便是睡時此念不静、作箇夢児也胡乱。
すなわちこれ睡時にもこの念静かならずして、箇(こ)の夢児を作すもまた胡乱ならん。
「胡乱」(うろん)は宋音読みだそうですが、「烏乱」とも書きまして「合点がいかない」「はっきりしない」。
すなわち眠っているときにもこの心が静まらないから、夢を見たってわけのわからん夢になるのである。
心が静まっていれば「わけのわかる夢」を見るもんかね?・・・と訊いてみたくもなりますが、がまんします。要らん敵を作る必要も無いゆえに。
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「呻吟語」第五則。二三日、枢や鏡のように静かにしていて気がついたら土曜日、ならシアワセなのですが。