どちらかに少しは進んでいる? 呉越や犬猿のように息の合わないおいらたちだが。
月曜日。少しは先週より状況進んでいるのでは? と期待して出勤してみたが・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・
(このお話は、南宋の陸放翁の書いていることです。陸放翁の時代、山東は大金帝国の領土でしたから、山東の情報を知ることはできなかった―――ということを前提にお聞きください。)
諺有曰濮州鐘、世不知為何等語。
諺に「濮州の鐘」という有り、世に何等の語たるかを知らず。
俗に「濮州(ぼくしゅう)の鐘みたいだなあ」という言い方をするが、誰もこのコトバの本当の意味を知らない。
「濮州の鐘」というのは言い回し、今となってはよくわかりませんが、おそらく「実物を見てみると大したことはなかった」というような意味らしいです。
さて。
嘗有人死。
かつて人の死する有り。
以前、死んだひとがあった。
このひとがあの世に行って、
見陰官、濮州人也。
陰官を見るに濮州の人なり。
あの世の裁判官の前に引き出されたところ、このひとが山東・濮州の出身のひとであった。
そこで、自分の死後の裁判はそっちのけにして、
問以此、亦不能対。
ここを以て問うに、また対するあたわず。
(「濮州の鐘」とはどういうものかという)この問題を質問したところ、そのひとも「うーん」と考え込んだまま答えられなかった。
濮州出身の、しかも死んだひとにもわからないという難問なのだ。
その後、死んだひとはあの世から追い返されて生き返ってしまい、この話を回りのひとにしたのだそうである。
しかし、わしにはだいたいわかっているのだ。このことは、五代・後周の世宗(在位954〜959)の「実録」に載っていることなのである。
・・・顕徳六年(959)二月丁丑の日、帝は道教の寺院である太清観にお出ましになられた。
先是、乾明門外修太清観成。
先にこれ、乾明門外に太清観を修め成れり。
従前から、皇宮・乾明門の外に太清観を建築していたところである。
その際、
上聞濮州有大鐘、声聞十里。乃命徙之、以賜是観。至是往観焉。
上聞く、濮州に大鐘有りて、声十里に聞こゆ、と。すなわち命じてこれを徙(うつ)し、以てこの観に賜う。ここに至りて往きて観るなり。
帝は、「山東・濮州に大きな鐘があって、その音は何キロも離れていても聞こえる」というウワサを聞いて、その大鐘を山東から河南の開封に持ってこさせ、この新設の道教寺院に寄贈していた。建物が完成したというので、お出ましになってご覧になられたのである。
―――この記述が「濮州の鐘」の典故なのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・
宋・放翁・陸游「老学庵筆記」巻四より。
帝がこの鐘をご覧になって「なるほど」と納得したか、「うわさとは違う」とがっかりしたか、は記録にありません。が、おそらくがっかりしたのでこんな言い回しができたのでありましょう。期待どおりのものが受け取れる、なんてことはあんまり無いし。