だれだお? 冬眠の「ドリーミング・タイム(夢の時空)」から、おいらを呼び戻したのは?
今日まではユメのような話をして暮らす。明日からはまた、砂漠のような日々がはじまるのだから。
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・・・そんな昔のことではないんです。萬暦年間(1573〜1619)の終わりころのことなんです。
そのころ、この江南地方に、羅浮隠者(らふ・いんじゃ)と名乗る道士がいた。自分では嶺南の広州から来た、と言っていた。
江南の富豪たちの家に輾転と寄宿して、飲んだり食ったりは普通のひとのようにしていたのだが、不思議なことに
独無溺矢。
ひとり溺矢(できし)すること無し。
排泄ということだけはしなかったのであった。
富豪たちも不思議がって使用人たちにひそかに見張らせてみたが、
竟日不見其溺、亦未嘗如厠也。無不驚異。
竟日その溺を見ず、またいまだかつて厠に如(ゆ)くことあらず。驚異せざる無し。
一日見張っていても排泄物は見つからないし、トイレにも行かないので、驚かない者はいなかったのであった。
その後、隠者は
「羅浮山に帰る」
と言いだして、いろんな人から餞別をもらって旅立ち、京口の町に宿泊したのであった。
店人惟供設諸商販人、而不顧隠者。隠者戟手大罵、遂出杖頭銭。
店人、諸商販人にのみ供し、隠者を顧みず。隠者、戟手して大罵し、遂に杖頭銭を出だす。
宿屋の人たちは、ちょうど泊まっていた商人たちにばかり酒食を提供して、羅浮隠者のところまでなかなか手が回らない。隠者はしびれを切らして、手を振り上げ、大声で店員たちを罵倒したあと、(杖にぶらさげている)手持ちのお金を取り出した。
そのお金で、
別買餚膳、取酒一斗、連噉恣嚼、凡尽数器而臥。
別に餚膳を買い、酒一斗を取りて、連噉恣嚼し、およそ数器を尽くして臥せり。
宿屋の外から食事を取り寄せ、また酒を一斗持って来させて、がつがつむしゃむしゃごくごくと続けざまに飲み食いして、何皿も空っぽにしてから寝てしまった。
その後すぐ、騒ぎが起こった。
宿屋の使用人たちが身体の異常を訴え出したのである。みな、
腹脹如厠洞下不止、輾転告急、幾不自持。
腹脹らみ、厠に如(ゆ)きて洞下して止まず、輾転として急を告げ、ほとんど自持せず。
おなかが突然膨張し、トイレに行って排便したのだが止まらず、ごろごろと苦しみながら助けを求め、もう持たないような様子になったのである。
商人たちは大いに驚いた。
どうしてやればいいのかと考えたが、そういえば先ほど、一人の道士らしいのがたかどのの方に登って行ったが、そのひと、好き放題に飲み食いしたあと酒壺を枕に眠っていると聞いて、
疑其呪術所為。
疑うらくはその呪術の為すところならんか。
「もしかしたらその道士の呪いかなんかではないのか」
と気づきまして、みんなでこの道士を起こしに行った。
再三呼之、乃起坐。
再三これを呼ぶに、すなわち起坐す。
二度三度とたたき起こしたところ、道士はようやく起き上がって座りなおした。
みながいう、
「宿の使用人たちがみな腹を壊したのです。
先生豈有薬治之乎。
先生、あに薬のこれを治する有らんや。
大先生、なにかよい薬はおもちではありませんかな?」
と。
隠者、大いに笑いて曰く、
吾飽食、故遣無頼代起溺矢。与作小劇耳、令他日更莫慢客也。
吾飽食せり、故に無頼をして代わりて溺矢を起こさせむ。ために小劇を作して、他日さらに客を慢することなからしむ。
「がっはっは。わしはちょっと食いすぎたので、そのヤクザどもに代わりに排泄させたのじゃが、ちょっと激しくさせて、今後、お客を粗略にすることが無いように思い知らせていたのじゃ」
商人たちが代わりに謝ると、隠者は「わかった、わかった」とうなずきまして、
須臾、店人腹中平復如故。
須臾にして店人の腹中、平復してもとの如し。
しばらくすると、使用人たちの膨らんだ腹は、もとのように戻ったのであった。
ああよかった。
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明・銭希言「獪園」巻三より。
隠者さまも大人げないことであるが、隠者さまが人に代わりに排泄させる術以外にどんな術が使えたのか、以上の記述ではわかりません。どうせなら、明日からの平日に耐えられるようにしてくれる「よい薬」でも持っていてくれればよかったのだが、そんな役に立つのは持ってなかったのでしょうね。
さて、本日、日本浪漫派の泰斗・保田與重郎(1910〜81)の「わが萬葉集」(文春学芸ライブラリー・2013)を読了す。この間読んでいた中公新書の「蘇我氏」と出てくる地名が重なるので勉強になった。
金刺宮の址に立つて朝倉宮のあたりの山あひの野を見てゐると、初国小さく作らせし神々の御思ひと、「狭野の稚国」といふ言葉のあはれさがしみじみと、わが胸にわきおこり、人ごころの離れゆく思ひさへする。ここが大倭朝廷の原地の日の本の「日出づる国」である。「国(クニ)」は「土地(ツチ)」と同じ意味だつた。(p17)
そうです。
ロマン派は憧憬する。憧憬とはどうしても手の届かないものに対して生ずる感情である。・・・ロマンティストの一切の原動力はただひたすらな憧憬から生まれる。(片山杜秀「解説」)
のだそうです。おいらも見果てぬ夢をまだ見ているよー。オトナになれないコドモだからかな、と思っていまちたが、そうではなくてロマン派だったから、なのでちゅねー。